関東の旅 鎌倉散策

若宮大路→日蓮聖人辻説法跡→青砥藤綱旧蹟→腹切りやぐら→宝戒寺→源頼朝の墓→大江広元の墓→荏柄天神→鎌倉宮→永福寺旧蹟→瑞泉寺

若宮大路から鎌倉街道を歩いてゆく。日蓮の辻説法の跡や新田義貞に攻められて執権北条高時が自刃したという切腹やぐら、源頼朝の墓など、鎌倉幕府の歴史そのものの史跡が点在するのだ。このコースの最後に訪れた瑞泉寺には夢想疎石の名勝庭園があるというのですごく楽しみにして行ったのだが…、たいしたことなかった。


 小町大路
若宮大路




青砥藤岡ゆかりの川


宝戒寺に着いた

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2008年9月9日

若宮大路から東、金沢街道に沿って点在するお寺を巡ることにする。

まず鎌倉駅に寄ってみた。観光客であふれている。駅から若宮大路を渡って小町大路を行く。すぐに日蓮聖人辻説法跡に着いた。
鎌倉時代にはこのあたりは武家の屋敷と商家が混在していて、日蓮は毎日のようにこのあたりにやって来て法華経の功徳を説く辻説法を行ったのである。
小町大路を少し行ってから右折すると鎌倉街道である。高時腹切りやぐらに向かう。小さな川があって、その手前に青砥藤綱旧蹟の碑がたっていた。青砥藤綱なんてまったく知らないのだが、北条時宗に仕えた武士である。「ある夜のこと、失敗してお金十文(じゅうもん)を滑川(なめりがわ)に落したので、たいまつを五十文で買って、お金をさがしだしました。そのことを人々は、得たものよりも失ったものの方が大きい、大損だ、と笑いました。しかし藤綱は、十文は小さいが、これを無くすことは、天下のお金を無くすことである。私は、五十文を無くしたが、これは人々の為になったのである、と諭(さと)しました。」というエピソードの川がすぐそこにある小川らしい。
川を渡って真っ直ぐに進むと腹切りやぐらに着く。ここは北条一門の菩提所だった東勝寺の跡で、新田義貞に攻められた北条高時が自刃したところなのだ。これで鎌倉幕府は滅んだのである。岩窟の中に小さな石塔が一つあるだけであった。
来た道を引き返して、萩の寺として有名な宝戒寺に行った。滅亡した北条氏の霊を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立させた寺である。この地に北条氏歴代当主すむ屋敷があったのだという。参道には大きな円盤の石が置かれていて、石柱の門の先に本堂が建っている。白萩が美しい寺だというのだが、花を見ることはなかった。ただ、本堂の前の水盤にピンクの蓮の花が咲いていた。




 源頼朝と大江広元の墓
源頼朝の墓入り口


大江広元の墓


次に目指したのは源頼朝の墓である。

源頼朝は正治元年(1199)に53歳で亡くなると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られたのである。法華堂は後に廃絶されてしまったのだが、この丘の一帯がその跡なのだ。幟が立ち並ぶ石段を上って、墓の前に着く。五重の石塔がたっているだけで、すごく質素なのものである。でも、この石塔は安永8年(1779)に薩摩藩主島津重豪が再建したものなのだ。
ここからさらに石段を戻って行くと、樹林におおわれた山腹に鳥居が見える。細い石段を上って鳥居をくぐると大江広元の墓に着く。墓はまるで山壁に掘られたトンネルのようである。中には五輪塔と小さな石灯籠が置かれていた。
大江広元の墓は江戸時代に長州藩によってつくられたもので、広元の墓だという根拠はないらしい。両脇には大江孝光と島津忠久の墓もある。大江季光は広元の子で、長州の毛利氏の祖先になるのだ。だから長州がこの墓を造ったのである。



 荏柄神社と鎌倉宮
荏柄神社


鎌倉宮


永福寺跡


次に向かったのが荏柄天神である。

源頼朝が長治4年(1104)に幕府の鬼門を守護する神社として創建したのである。福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並んで日本三天神の一つという古社なのだ。
赤い鳥居をくぐって石段を上ると、鮮やかな朱の本殿がたっている。本殿は国の重要文化財である。境内には高さ25m、樹齢900年という大銀杏の木があった。御神木である。
次に行ったのが鎌倉宮である。
鎌倉宮は護良親王を祀る神社なのだが、この神社は鎌倉時代からのものではなくて、明治2年に建てられたのだ。護良親王は後醍醐天皇の皇子で大塔宮ともいう。鎌倉幕府倒幕に活躍し、よって天皇親政が復活したのだが、これが建武の中興である。でも、鎌倉幕府を倒した後に足利尊氏と対立して捕らわれ、土牢に幽閉されてしまうのだ。
境内には親王の身代わりになって吉野で死んだ村上義光を祀る村上社もあった。
鎌倉宮から瑞泉寺に向かって歩いて行くと、永福寺旧蹟という碑がたっていた。現在発掘中で金網の柵で中に入ることはできない。でも、説明板を読むと、宇治平等院のようなすごい寺院であったらしい。真ん中が二階堂で、左右に阿弥陀堂と薬師堂を従え、回廊が延びていたのだ。柵の中は草茫々で昔を偲ぶ何ものもない。



 瑞泉寺
瑞泉寺への石段


瑞泉寺


夢想国師作の庭園


石仏が置かれた、荏柄天神社御旅所を過ぎ、さらにまっすぐに進むと瑞泉寺に着く。狭く長い石段を上る。

瑞泉寺は嘉暦2年(1327)に二階堂道薀が夢想疎石を招いて創建し、後に初代関東管領の足利基氏が中興したのだという。関東公方の菩提寺として鎌倉五山に次ぐ関東十刹に列せられた格式ある寺院なのである。
「鎌倉随一の美しさを誇る花の寺」というのだが、たどり着いた境内には隙間がないほどに草木が茂っていて、その奥に仏殿が見える。私には草木が茫々の荒れ果てた庭のようにしか見えないのだが、これが「花の寺」所以の花畑らしくて、「瑞泉寺境内」として国の史跡に指定されているのだ。
境内には仏殿、地蔵堂、開山堂などがあるのだが、ほとんど大正時代以降に再建されたものである。
この寺には夢想疎石作庭という「名勝庭園」があるというので、けっこう楽しみにしてやって来たのだ。本堂の裏に回り込むと池があって、その奥の岩壁に穴がいくつも開いている。鎌倉独特の墓である「やぐら」のようで、とてもすばらしい庭園とは思えなかった。この庭園は昭和45年に発掘されて復元されたものなのだ。鎌倉に残る鎌倉時代作の唯一の庭園である。


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