関東の旅

建長寺(三門→ヒャクシン巨木→仏殿→法堂→唐門→方丈庭園)→鶴岡八幡宮(社殿→大銀杏→舞殿)→若宮大路

鎌倉の街は、町を貫いて若宮大路があって、その突き当たりに鶴岡八幡宮がある。鎌倉駅で降りた観光客はまずこの大路を歩いて鶴岡八幡宮に向かうので、最も観光客が集まるところなのだ。そして八幡宮から北に10分ほど歩いたところにある建長寺は鎌倉五山の筆頭で壮大な伽藍が配されている。私は北鎌倉の古寺を巡って建長寺から鶴岡八幡宮へと歩いた。



 建長寺
建長寺三門


ヒャクシンの巨木


唐門

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2008年9月9日

歩いてきた道を戻り、踏切を渡って建長寺に向かった。

建長寺は、建長5年(1253)に5代執権北条時頼が国家興隆と北条家の菩提を祈るために建てられた寺である。鎌倉五山の筆頭の寺院であり、それにふさわしい堂塔伽藍が立ち並んでいる。
総門をくぐってって境内に入ると、まず大きな三門がそびえたっている。
門には「建長興國禅寺」という金文字の額がかかっている。この文字は後深草天皇の筆というが、どうも違うらしい。
三門の右には茅葺きの屋根の鐘楼がある。ここに架かる梵鐘は国宝なのだ。建長7年(1255)北条時頼の発願で鋳造されたもので、蘭渓道隆筆の銘文が浮き彫りにされているのだ。
山門から参道を行くと、正面にたつのが仏殿である。これも元々ここにあったものではなくて、東京の芝増上寺から徳川秀忠夫人の御霊屋を移築したものなのだ。この前にはヒャクシン(拍槙)の巨木があった。
仏殿のすぐ後ろには法堂がある。法堂としては関東最大規模のもので、中に入ると天井には雲龍図が描かれている。でも、鎌倉時代とか江戸時代のものではなくて、2002年に小泉享作によって描かれたものなのだ。
法堂からさらに進むと唐門がある。これも、仏殿と同じく徳川秀忠夫人の御霊屋から移築したものなのだ。重要文化財に指定されている。
唐門の中には方丈がある。これは京都の般舟三昧院から移築されたものである。方丈の後ろには夢想疎石の作という庭園が広がっている。真ん中に心字池を配した緑が美しい庭であった。



 鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮の横から入った


石段から舞殿を見下ろす


舞殿を振り返る


これで建長寺の参拝を終えて、鶴岡八幡宮に向かった。近道をするために、八幡宮裏から入った。石段を上ると、すぐに鮮やかな朱の本殿の横に出る。正面に回り込む。

鶴岡八幡宮は前九年の役で奥州を平定して鎌倉に凱旋した源頼義が、康平6年(1063)に京都の石清水八幡宮を勧進して、源氏の氏神として祀ったのが始まりなのだ。そのときは由比ヶ浜の近くにあって、由比若宮と呼ばれていたのだが、源頼朝が鎌倉に入ったときにこの地に移したのである。
お参りしてから正面の広い石段を下った。この石段のすぐ脇には大きな銀杏がそびえたっている。高さ30m、樹齢1000年余りの巨木である。承久の変で3代将軍源実朝は、この銀杏の木の陰に隠れていた甥の公暁に暗殺されるのだ。隠れ銀杏とも呼ばれる。
実朝は頼朝の次男として生まれたのだが、頼朝が亡くなった後は三代将軍でありながら、母の政子と北条氏の操り人形となってしまって、まったく実権はなかったのだ。実朝は武家の棟梁という資質はまったく欠如していて、和歌の才能のほうがはるかに優れていたのだ。悲劇の将軍である。

石段を下ったところには舞殿がある。静御前が義経を慕って舞ったという話しは有名なのだが、それは舞殿ではなくて、その当時はここに回廊があってそこで舞ったのというのが真相らしい。
参道をブラブラと歩いて行って、大鳥居をくぐって外に出る。その先には若宮大路が続いている。


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