関東の旅

北鎌倉駅→円覚寺(三門→選仏場→居士林→仏殿→方丈庭園→白鹿洞→妙光池)→東慶寺→浄智寺→名月院

鎌倉の散策は北鎌倉から始めた。駅を出るとすぐに円覚寺に入り口で、ここには国宝の舎利殿があるのだが、進入禁止となっていた。縁切り寺として有名だった東慶寺、花の寺として知られる浄智寺、アジサイの花が美しいという名月院。鎌倉の古寺は京都・奈良とはまったく違った雰囲気で、散策していてすごく楽しいのだ。



 円覚寺
北鎌倉駅


三門


方丈


舎利殿入り口


白鹿洞


開山廟

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2008年9月9日

北鎌倉駅で降りた。

鎌倉は歩いてすべて巡りたいと思っているのだが、けっこう広域でエリアを4つほどに分けて散策しようと思っている。
まず北鎌倉のエリアである。円覚寺、東慶寺、浄智寺、明月院を訪れるつもりだ。
駅から少し行くと、円覚寺の入り口がある。
元寇の役の戦死者の霊を慰めるために、弘安5年(1282)に8代執権北条時宗が創建した寺院である。宋の名僧無学祖元を迎えて開山した円覚寺は、鎌倉時代は北条得宗家の菩提寺として、南北朝時代には鎌倉五山の第2位として大いに栄えたのである。
現在は18の塔頭を従えた臨済宗円覚寺派の大本山なのだ。すばらしく広い寺域で、散策も大変である。
石段を上って総門をくぐり、拝観の受付をする。
まず、石段の上に大きくそびえているのが三門である。天明3年(1783)に誠拙和尚によって再建されたという重厚な感じの楼門である。門に掲げられている額には「圓覚寺聖禅寺」と書かれていて、伏見上皇の勅筆なのだ。お寺が創建されたときに、この門の下から石櫃に入った「円覚経」が掘り出されたので、円覚寺という名前になったという。
山門の左に茅葺き三角屋根のお堂があった。元禄12年(1699)に建立された選仏場である。もとは座禅を行う道場だったのだが、今は名前の通り仏様を選び出すお堂になっているのだ。中には南北朝時代の薬師如来像があった。
ここから少し行くと、左に伸びる長い参道があって、その奥には座禅道場の居士林がある。居士というのは在宅信者のことなのだ。建物は東京新宿の牛込にあった柳生流の剣術道場を移築したものなのだそうだ。
三門をくぐったとき正面に見えるのが仏殿である。鎌倉時代のものかと思ったら、これは昭和39年に再建されたものなのだ。
このすぐ先に大方丈がある。昭和4年に再建されたものである。方丈前には大きな池のある庭園が広がっていた。
大方丈からさらに山に向かって参道を上って行くと、左に舎利殿の入り口がある。舎利殿は国宝となっていて、鎌倉時代の代表的な建築物なのだ。私はこれが見たくて円覚寺にやってきたのだが、悔しいことに今は舎利殿の前まで行くことはできないのだ。お金を返せと叫びたくなってしまう。舎利殿は正続院の境内にあるのだが、その山門から先は立入禁止なのだ。山門から望遠で写真を撮ったが、屋根が写っただけであった。
黄梅院に向かって参道を上って行くと、右に「白鹿洞」があった。円覚寺開山のときに、ここから一群の白鹿が現れたというのだ。円覚寺の「瑞鹿山」という山号はこのことに由来するのである。
さらに石畳の参道を進み黄梅院の前を過ぎると、突き当たりに立っているのが観音堂である。もうここからは引き返すしかない。
ターンするとすぐに開基廟の標識を見つけた。これは仏日庵ともいうのだが、円覚寺開基の北条時宗を祀るお堂である。廟というので、どんな大層なものかと期待したのだが茅葺きのごく質素なものであった。時宗はここに庵をむすんで禅の修行を行ったという。
引き返して行くと妙香池がある。来るときは気にもとめずに通り過ぎたのだが、これは夢想疎石作の庭園の遺構なのだ。池には虎頭岩という標識がたっていた。そんなに有名な池なのか…。
これで円覚寺の拝観を終えて、次に東慶寺に向かった。



 東慶寺
東慶寺の門


東慶寺境内


東慶寺といったら、縁切り寺として有名である。この寺は弘安
8年(1285)に北条時宗夫人の覚山尼が開き、室町時代には尼寺五山の第二位にもなった古刹なのだ。封建時代においては妻からの離婚は許されなかったのだが、覚山尼は勅許を得て尼寺に駆け込んだ妻が3年間修行すれば離婚が成立するという縁切寺法を設けたのである。でも、明治に縁切り寺法は廃止されて、かっての尼寺は今は男僧の寺になっているのだ。
二層の屋根の仏殿が美しいのだが、これは昭和10年(1935)に再建されたものである。
元々ここにあった仏殿は重要文化財なのだが、横浜の三渓園に移されてしまったのだ。
境内の奥にある東慶寺墓地には後醍醐天皇皇女用堂女王墓があるというので行ってみた。鬱蒼とした林の中を緩やかに上って行く。墓地の中にやぐらがあって、その中に小さな石塔が置かれていた。「やぐら」というのは中世鎌倉時代特有の洞窟墳墓のことである。
この墓地には西田幾多郎や和辻哲郎の墓もあるというのだが、よくわからなかった。
東慶寺から参道を引き返して車道に戻る。



 浄智寺
浄智寺の総門に着いた


岩窟の石仏群


東慶寺から少し行くと、右に浄智寺がある。

浄智寺は花の寺として有名らしいのだが、この時期は花はまったく咲いていなかった。
鎌倉幕府
5代執権北条時頼の三男、北条宗政の菩提を弔うために建てられた寺であるが、高峰顕日や夢想疎石などの高僧を住職に迎えることによって、鎌倉五山の第4位にまで列せられる大寺になったのである。
小さな石橋を渡ると、石段の上に「近在所寶」の額がかかる総門がある。これをくぐって石段を上ると鐘楼門がある。この鐘楼門をくぐって境内に入ると、右に「曇華殿」がある。この中には過去・現在・未来をあらわす釈迦・阿弥陀・弥勒の三世仏が祀られているのだ。
庫裡は茅葺きで鍵形に曲がっている。まるで古民家みたいである。山際を歩いてゆくと岩壁に窟が続いていて、そこに石仏が置かれている。その中でひときわ立派なのが布袋像であった。お腹が異様に黒ずんでいる。お腹をなでると元気がもらえるということで、みんなが触るらしい。



 名月院
北条時頼公の墓


瓶の井


浄智寺から参道を引き返して、さらに
JRの踏切を渡って明月院に向かった。
明月院はあじさいの寺として有名なのだが、今は秋なので、もちろん花は咲いていない。総門をくぐってすぐに北条時頼の墓に向かった。少し歩かなければいけない。石の柵の中に石塔がたっている。宝筺印塔と五輪塔を組み合わせた形であった。北条時頼はここに最明寺を建て、出家してこの寺に住したのだ。明月院はその寺の塔頭の一つで、今は明月院だけが残ったというわけである。
すり減った石段を上り、山門をくぐって方丈の前に出る。
方丈の前には枯山水の庭園もあった。
左手には開山堂がたっている。茅葺きの三角屋根のお堂である。この後ろには「瓶の井」があった。鎌倉十井の一つで、岩盤を垂直に掘り貫いてつくった井戸である。中が水瓶のようにふくらみをもっていることから「瓶の井」というのだ。鎌倉十井というのは、江戸時代、水質があまりよくなかった鎌倉で、特に良質の水が湧いたという十の井戸のことなのだ。


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