関東の旅

鎌倉駅→極楽寺駅→極楽寺→上杉憲方の墓→成就院→星の井→虚空堂→御霊神社→収玄寺→長谷寺

鎌倉の西を散策した。江ノ電で極楽寺まで行って、ここから長谷寺まで歩く。途中の寺院、神社はいずれも北条氏や日蓮などに関連する史跡である。長谷寺は奈良桜井の長谷寺とは姉妹の寺院といってよくて、本尊の十一面観音像は本当に姉妹なのだ(という伝説がある)。


 極楽寺 上杉憲方の墓
江ノ電の新型車両


極楽寺山門


極楽寺本堂

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2008年9月10日

大町界隈の散策を終えて鎌倉駅に行き、江ノ電で極楽寺まで行った。ここからブラブラと歩いて、長谷寺、鎌倉の大仏と散策するつもりである。

江ノ電と言ったら路面電車のような車両という印象があるのだが、私が乗った車両はすごく新しいものであった。
極楽寺駅は名前の通り、極楽寺のすぐ前にあるのだ。参道の先には茅葺きの寺門があって、境内に入ると桜並木の参道であった。その奥に本堂があるのだが、本堂前には大きな百日紅の木があって、ピンクの花が満開であった。
極楽寺は3代執権北条泰時の弟重時が創建したもので、執権を補佐する連署という重職にあったのだが、権力への執着はなかったようであっさり出家してしまい、自分の邸宅に極楽浄土を表す大寺を建立しようとしたのだ。ところが工事半ばで重時は亡くなってしまって、その子の長時と業時が後を継いで、奈良西大寺の忍性を呼んで開山したのだ。忍性は社会奉仕活動に生涯を捧げた人で、ここに悲田院や施薬院を開いて民衆を救ったのだ。境内には忍性が使ったという千服茶臼と薬鉢が残っていた。

極楽寺を出て、江ノ電の線路を桜橋で渡る。渡った先の十字路には上杉憲方の墓がある。…はずなのだが見つからない。私は道端にあるものと思っていたのだが、路地を少し入らなければいけないのだった。上杉憲方というのは鎌倉公方足利氏満に仕えた人で、康暦元年(1379)に関東管領に任じられたのだ。
古く苔むした五輪塔が四基と石塔が二基ある。このうち比較的新しい七重の石塔が上杉憲方の墓なのだそうだ。基部の四面には仏像が刻まれていた。



 成就院 虚空堂
成就院西結界門


星の井


虚空堂の舟守地蔵


200m
ほど東に歩くと、右に急な石段道がある。これが成就院への参道である。石段を上ると「西結界」という額が懸けられた門があって、これをくぐった先は樹木の茂る間に続く緩やかな坂道である。よく見たら、この樹木はアジサイであった。成就院はアジサイ寺とも呼ばれる寺なのだ。坂道の途中から振り返ると海が見える。由比ヶ浜であった。
成就院は弘法大師が護摩を焚いたという旧蹟に、承久元年(1219)3代執権北条泰時が堂宇を建立したのだという。でも、後に新田義貞が鎌倉を攻めたときに焼失して、現在の伽藍は江戸時代に再建されたものなのだ。

成就院から坂道を下って行くと鎌倉十井の一つ「星月の井」がある。鎌倉十井というのは良質の水が湧くとか伝説が残るなどの十の井戸で、江戸時代に鎌倉観光の名所として定めたものなのだ。井戸にはお堂の屋根のような蓋がしてあった。かって、このあたりは山深くて昼でも暗かったために井戸をのぞくと星が輝いて見えたということから星月の井戸という名がついたのだそうだ。私も井戸をのぞいて見たかったのだが、蓋がしてあるので星を見ることはできなかった。
井戸の横に石段があって、これを上ると虚空蔵堂である。聖武天皇のとき、行基がこの地で修行したのだが、井戸の中に三つの明星が七夜も光り輝いたので、井戸を探ると黒く輝く石があったのだという。行基はこの石を刻んで虚空蔵菩薩として、ここにお堂を建てて祀ったのだ。急な石段には南無虚空蔵菩薩と書かれた白い幟が並び、今も篤い信仰を受けていることがわかる。お堂の前には「舟守地蔵」の小さなお堂があった。ここからは由比ヶ浜が見えるので、舟の航海安全を守るお地蔵様なのだろうか。



 御霊神社 収玄寺
御霊神社本殿


収玄寺


収玄寺本堂


虚空堂から
100mほど行くと力餅屋という歴史を感じさせるお店があって、その前にすごく立派な石標が立っている。五霊社という字は読めるのだが、他の崩した字は私の能力では読めない。ともかくここで左折して江ノ電の踏切を渡ると御霊神社である。
境内に入ったが、観光客もいなくて静かであった。この神社に祀られているのは鎌倉始祖という鎌倉権五郎である。鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があって、これらの五家の祖を祀るのが五霊神社なのだ。今は鎌倉権五郎だけが祀られるようになっているらしい。権五郎は後三年の役(108387)のおり、16歳にして源義家に従って出陣したという豪傑である。この神社には県の無形文化財に指定されている「面掛行列」という奇祭があるというのだが、それは918日に行なわれるので見ることはできなかった。境内で目を引いたのはタブの巨木である。樹齢350年と推定され、樹高20m、「かながわの名木100選」に選ばれている。私はこうした巨木が大好きなのだ。

神社から東に向かって歩いて行くと、広い道に出る。左に行くと突き当たりに鎌倉の大仏があるのだが、まず収玄寺に寄ることにした。少しだけ右に行くと門があって、その中に大きな石碑が見える。境内には樹木がいっぱいで、それに隠れるようにして収玄寺本堂があった。一番目を引く大きな石碑には「四條金吾邸址」と書かれている。この寺は鎌倉幕府で左衛門尉(唐名では金吾という)だった四条頼基の屋敷跡に建てられたのだ。石碑の文字は日露戦争連合艦隊の司令官東郷平八郎の揮毫だそうだ。四条頼基は龍の口で日蓮が処刑されそうになったときに身代わりを申し出たという熱心な日蓮信者だったのだ。



 長谷寺
長谷寺門前街


長谷寺境内


観音堂


境内の見晴台


鎌倉大仏へ向かう広い道を歩いて行くと、すぐに長谷寺の入り口がある。

長谷寺は板東三十三観音の第4番札所、山門に至る道にはお店が並んで、すごく賑やかである。長谷寺といったら奈良県桜井市のお寺を思ってしまうのだが、由来をみたらすごく密接な関係があるのだった。養老5(721)徳道上人が1本の楠で2体の十一面観音像を刻み、1体は大和の長谷寺に安置して、もう1体は海へ流したのだ。これが天平8年に三浦半島の長井の浜に漂着したので、徳道上人を招いてここに寺院を建て祀ったのだそうだ。ホントかよ…と思ってしまうのだが、確かに大きさといい姿形といいよく似た観音像ではある。でも、実際はこの観音像は室町以降の作らしい。
大きな赤い提灯が下がる山門があるのだが、この門をくぐることはできなくて、横の拝観入り口から入るのだ。境内に入ると、右に大きな池が広がっている。山門からまっすぐに進んで石段を上って行くと地蔵堂がある。このお堂の後ろには「千体地蔵」があって、小さな地蔵尊がいっぱい並んでいた。卍池という池もあって、池が本当に卍の形をしていた。
地蔵堂の前でターンしてさらに石段を上ると広場に着くる。大きな立派な本堂が建っている。向かって右から阿弥陀堂、観音堂、宝物館となっている。建物自体は鉄筋コンクリートの新しいものである。中に入ると、高さ
9.18mという大きな十一面観音像が聳え立っている。
境内の奥には見晴らし台があって、ここから由比ヶ浜を展望できる。すばらしい展望である。
長谷寺は板東三十三観音の巡礼のため再訪することになるはずだ。



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