関東の旅

長谷寺→光則寺→高徳院(鎌倉大仏)→甘縄神明宮→長谷こども会館→鎌倉文学館→由比ヶ浜駅

やっぱり鎌倉といったら鶴岡八幡宮と鎌倉の大仏で、今回の鎌倉散策のしめくくりは鎌倉大仏にした。私が大仏の前に立ったとき、空は真っ青に晴れて、与謝野晶子が「美男におわす」と詠った仏のお顔には日がさして輝くようであった。


 光則寺 鎌倉の大仏
光則寺参道


光則寺の日朗上人土牢


観光客がいっぱいの境内


鎌倉の大仏

BACK 極楽寺から長谷寺へ

2008年9月10日

長谷寺の北隣には光則寺がある。もちろん立ち寄るのだが、一旦参道を引き返してコの字に曲がるというすごい遠回りをするのだ。
校門のような石柱門があって、この先に赤い山門がある。光則寺は宿谷光則の屋敷跡に建てられた寺院である。
宿谷光則は日蓮聖人が書いた「立正安国論」を
5代執権北条時頼に渡した人で、これが原因で日蓮は佐渡に流されることになるのだ。境内は樹木でいっぱいなのだが、その中に大きな石碑がある。日蓮真筆の「立正安国論御勘由来」を刻んだものである。本堂の裏には日朗上人の土牢があるというので行ってみた。日朗は日蓮の高弟で、日蓮が佐渡に流されたときに捕らわれて、この土牢に監禁されたのである。

光則寺から参道を引き返して、広い道を北に400mほど行くと鎌倉の大仏がある高徳院である。
仁王門をくぐって、拝観受付から境内に入る。すぐに正面に大仏が見える。
鎌倉の大仏については与謝野晶子が

かまくらや みほとけなれど釈迦牟尼は
美男におわす 夏木立かな


と詠んでいるのだが、釈迦牟尼というのは間違いで、これは阿弥陀仏なのだ。
今ある大仏は二代目である。僧の浄光が民間から資金を集めて、暦仁元年(1238)から6年がかりで木造大仏を完成させたのだ。ところがこの大仏は4年後に台風で崩壊してしまったので、浄光は再び資金を集めて、今度は青銅の大仏を完成させたのだ。これが現在の大仏である。当初は大仏殿の中に収まっていたのだが、台風で二度壊れ、明応4(1495)には津波で流され、その後は再建されず現在に至っているのだ。私は青空の下に座す大仏というのはけっこう好きなのだが…。
この大仏の後ろの樹林の下には与謝野晶子の歌碑がたっていた。



 甘縄神明宮 鎌倉文学館
甘縄神明宮の本殿


鎌倉文学館への道


鎌倉文学館


文学館庭の彫像


大仏から大通りを南に引き返して、長谷寺の参道との交差点で東に折れる。
200mほど行くと、左に甘縄神明宮の参道がある。この参道は桜並木なのだが、今は秋なので桜の花はない。樹林の間の苔むした石段を上って本殿の前に着く。この神社は神明宮の名前の通り、天照大神を祀る神社である。和銅3(710)に、豪族染谷時忠が創建したという鎌倉で一番古い神社である。源頼義がこの神社に祈願して八幡太郎義家が生まれたことから、子宝に御利益がある神社としても有名らしい。
境内の片隅には「安達盛長邸址」という石碑があった。この人は源頼朝の重臣だった人である。境内には「鎌倉の古木名木50選」に選ばれたタブの巨木があった。

あとは由比ヶ浜駅から電車に乗るつもりだったのだが、鎌倉文学館が近いので寄って行くことにした。細い路地を行くと古い洋館があった。長谷こども会館で、鎌倉の洋館が関東大震災でほとんど壊滅したなかで残された貴重な明治期の洋館なのだ。

樹林の坂道を緩やかにカーブして登って行くと鎌倉文学館に着く。
この洋館は、旧加賀藩主前田家の鎌倉別邸で、昭和39年からは佐藤栄作元首相が借りて別荘としていたのだが、昭和58年に鎌倉市に寄贈されたなのだ。ここでは鎌倉ゆかりの文学者の直筆原稿や手紙、愛用品を展示していて、建物の前の庭はすごく広くてバラ園になっているのだ。また三島由紀夫の小説「豊饒の海 四部作」の第1作「春の雪」の舞台ともなっている。私は三島のこの小説が好きなので、すっかりうれしくなってしまった。
これで鎌倉観光は終了、1415分になっていた。あとは由比ヶ浜駅から江ノ電で鎌倉に行き、JRの各駅停車で仙台に帰るだけである。




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