稚内→稚内発祥の地碑→宗谷護国寺→間宮林蔵渡樺の地→宗谷岬(間宮林蔵銅像→日本最北端の地碑→「宗谷岬歌碑)→宗谷岬平和公園(宗谷岬灯台→あけぼの像→宮沢賢治詩碑→旧海軍望楼→平和の碑→祈りの塔→平和の鐘)

宗谷岬は本州最北端の地である。私は礼文島の方が北だと思っていたのだが、正真正銘、ここが最北端なのである。岬からは43km先にある樺太が展望できるのだが、あいにくの小雨で見ることはできなかった。



 宗谷護国寺
風車のたつ岬


宗谷護国寺跡

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2008717

稚内の駐車場で寝た。今日は雨なので登山はできない。北海道最北端を少し観光しようと思っている。
まず、日本最北端の宗谷岬に向かった。雨が強い。
集落の中に入ったら、「稚内市発祥の地」という碑がたっていた。稚内は明治33年に宗谷村から分村してできたのだ。
この先に「宗谷護国寺跡」があるので立ち寄った。芝生の公園になっていて、「旧藩士の墓」があった。幕末、ロシアがしきりと北海道周辺に現れるようになって、これに対抗するために東北の藩士が警備に当たったのである。津軽藩士・会津藩士・秋田藩士がこの宗谷に派遣されて、この地で亡くなったものも少なくなかったのだ。その藩士の墓が並んでいるのだ。
宗谷護国寺跡には史跡の説明板がたっているだけである。当然。この宗谷護国寺は当時、日本最北端の仏教寺院ということになる。
この説明板から少し離れてお寺の本堂がたっている。護国寺とは別なのだが、本堂への参道へは石仏が並んでいた。



 宗谷岬
間宮林蔵渡樺の地碑


宗谷岬


さらに宗谷岬に向かって走って行くと、「間宮林蔵渡樺の地」という標識がたっていた。

ロシアの南下政策に危機感をいだいた幕府は文化54月(1808)に間宮林蔵を北蝦夷(カラフト)の調査に向かわせたのだが、間宮林蔵はここから樺太に渡ったらしい。石碑がいくつかたっていた。ここからは、すぐ向こうに灯台がたつ宗谷岬が見える。
宗谷岬に着いたときは強い雨が降っていた。風も強い。まだ647分なので観光客はまったくいない。公園には間宮林蔵の銅像がたっていて、樺太の方向を見つめていた。
岬の先端には「日本最北端の地碑」がたっている。この三角錐の碑は北極星の一稜をイメージしているのだそうだ。
さらに「宗谷岬」という唄の歌碑もたっていた。ダカーポが唄うこの歌は、夏の観光時期にスピーカーで繰り返し繰り返し流されるのだ。




 宗谷岬平和公園
宗谷岬灯台


氷河地形の説明板


宮沢賢治の詩碑


大岬中学校跡地の碑


宗谷岬から緩やかに坂を上って、台地の上に着く。宗谷岬平和公園としてきれいに整備されていて、その奥に広がる大草原は宗谷丘陵大牧場になっているのだ。

丸い説明板がたっていて、北海道の自然100選・宗谷丘陵周氷河地形」と書かれている。宗谷丘陵は今から約二万年前、氷河の周辺部が凍結と解凍を繰り返すことによって、稜線も谷も丸みのある独特の地形になったのだという。このような明瞭な周氷河地形が見られるのはここだけなのだそうだ。
この公園にはたくさんの石碑やオブジェがあるのだ。その一つ一つを眺めてまわった。
まず目を引くのが紅白の縞模様で四角い「宗谷岬灯台」である。この灯台がたてられたのは明治18年で、道内では納沙布岬(根室)、日和山(小樽)に次いで古い灯台なのである。
そして「あけぼの像」、風になびく布を持った男女の銅像である。「天北酪農の夜明け」を象徴しているのだそうだ。衣服はよくわからないのだが、野良着なのだとか。
公園の中で最も大きいのが「祈りの塔」である。まるで折り鶴の頭のようなのだが、これは昭和58年に起きた大韓航空機追撃事件の遭難者の慰霊のために、昭和60年にたてられたのだ。
古い砲台のような建物がある。旧海軍望楼である。ロシアと国交が悪化した明治35年(1902)に国境防備のためにつくられた要塞なのである。ここからは宗谷海峡を一望できるのだが、あいにく今日は雨で遠くは見えない。
ピラミッドの上に赤い球を置いた「平和の碑」というオブジェがある。この宗谷海峡で日本と米国の壮絶な戦いがあって、米国潜水艦が80名の乗組員とともに沈んでいるのだ。その慰霊のためにたてられた碑である。
小雨の降る中の散策であったが、これで宗谷岬の観光を終えて稚内に引き返すことにする。



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