吉野


近鉄吉野駅→ロープウェイ駅→七曲遊歩道→ロープウェイ山上駅→黒門→銅の鳥居→蔵王堂仁王門→蔵王堂→吉野南朝跡→後醍醐天皇導稲荷天神→韋駄天山→宮坂→桜本坊→竹林院群芳園


大峯奥駈けのために吉野にやって来たのだが、せっかくなので、じっくり観光してから登山を開始することにする。吉野といったら桜で、全山が桜の花におおわれるのだが、残念ながら私が訪れたのは夏である。


 名古屋から吉野山上へ
近鉄で吉野に向かう


吉野駅


ロープウェイ駅の右に登り口がある


赤い橋が見えてきた

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200984

名古屋から吉野に向かう一番早い電車に乗ったのだが、それでも吉野着は922分になってしまった。
名古屋から5時半発の電車に乗って、伊勢中川で乗り換える。1時間余りで大和八木、そこで橿原神宮行きに乗って、すぐに橿原神宮から吉野行きに乗り換える。
吉野駅に着いたとき、電車の乗客はほとんどいなかった。
改札を出ると、青空が広がっていて、今日は快晴である。
大峰山奥駈けのガイドブックでは、ここからロープウェイに乗って、さらにバスで金峯神社まで行くことになっているのだが、もちろん私は全コース歩くつもりである。
それにしてもザックが重たい。こんなので8日間も歩くことができるのかと心配になってしまう。
駅前広場には天武天皇の歌碑があった。

よき人の よしとよく見て よしと言ひし
芳野よく見よ よき人よく見


駅前広場をまっすぐに歩いて行くと、その奥にロープウェイ乗り場があった。これを左に見て樹林の道を進む。これが登山道なのだが、簡易舗装の道である。
ジグザグに急な道を上ると、すぐに車道に出てしまった。そこには幣掛神社の赤い鳥居があって、その左に「七曲遊歩道入口」の標識があった。ここからが本当の登山道だと思ったら、コンクリート造りの階段が続く。かなり急な登りの連続で、名前の通り、七曲がりのジグザグの登りである。
階段が終わると、深い溝の中を歩いたりして高度を稼いで行く。時々車道に出てしまったりするが、すぐに樹林の中の遊歩道に入る。
行く手に赤い欄干の橋が見えてきて、ここに登り着くと、吉野の門前街が続いていた。ここはもう吉野の山の上である。車道を歩いて行く。古い宿場のような町並みが続く。すぐに、ロープウェイの山上駅があった。



 蔵王堂(73番靡)
銅の鳥居


蔵王堂の仁王門が見えてきた


蔵王堂境内


蔵王堂


南朝妙法殿


少し行くと黒門である。黒門は金峯山寺の総門で、いうなれば吉野一山の総門でもある。昔は公家大名もこの先は馬から下りて槍をふせて通行したという格式の高い門なのだ。

黒門をくぐってさらに町並みの中を歩いて行くと、大きな石造りの鳥居が見えてきた。広い石段を上って大鳥居をくぐる。石造りと思った鳥居は銅板でおおわれていた。銅の鳥居というのだった。石段の上は広場になっていて、役行者を祀った御堂もあった。
行く手の町並みの上には大きな楼門が聳え立っている。蔵王堂の伽藍である。
楼門に向かって、急な石段を上って行く。門には「国宝仁王門」という標識がかかっていた。たしかに左右に立派な仁王像がたっていた。
門をくぐって樹林の中の参道を行き、石段を上がって右折すると明るい、広い境内にでる。
蔵王堂の伽藍が高く聳え立っていた。境内の真ん中は石の柵で囲われていた。なんだと思ったら、大塔宮御陣跡という大きな石柱がたっていた。この広い境内を横切って西の端まで行くと、下に六角三重塔がたっているのが見えた。これが吉野朝宮跡である。ここに行くには急な石段を下らなければいけない。おっくうで止めようかと思ったが、せっかくなので行ってみることにした。
延元元年(1336)、京を逃れた後醍醐天皇はここを御座所としたのだ。足利幕府と北朝に対抗する南朝(吉野朝廷)の皇居跡なのである。
三重塔に向かう参道の左は小さな公園になっていて、そこにはたくさんの歌碑がたっていた。

袖かへす 天津乙女も思ひ出ずや
吉野の宮の 昔語りを   後醍醐天皇


三重塔は「南朝妙法殿」というのだ。すごく新しいものなのだが、吉野朝宮跡という石柱から仰ぎ見ると、ひどく美しかった。
急な石段を上りかえして境内に戻った。最後に本堂をお参りする。この中には金剛蔵王権現の巨像三体が祀られているのだが、扉が閉ざされていて見ることはできない。
この本堂は山上ガ岳山頂にある山上蔵王堂(大峰山寺)に対して山下蔵王堂と呼ばれて、修験道霊場である吉野・大峰の中心的伽藍として信仰を集めてきたのだ。この御堂は天正20(1592)に再建されたものである。
観音堂と愛染堂を左に見て、石段を下って車道に戻る。石段の左には赤い鳥居の稲荷社があって、「後醍醐天皇導稲荷天神」という石柱がたっていた。




 中千本を行く
韋駄天山


勝手神社、立入禁止だった


宮坂


道ばたには講の石碑群

町並みを歩いて行くと右に韋駄天山の入口があった。展望台になっているようなので上ってみた。急な坂を少し上がると、樹林の広場があって、祠があった。その後ろが展望台になっていて、民家の屋根の上に蔵王堂の本堂がたっているのが見えた。
道に戻ったすぐ右には東南院があって、その境内には立派な多宝塔があった。でも、この多宝塔は昭和12年に紀州から移築したものなのだそうだ。
古い町並みが続く。その中に陀羅尼助という看板を掲げた古い商家があった。薬問屋のようで、中には古い看板が飾ってあった。
このすぐ先に勝手神社がある。でも、境内は立入禁止になっていた。草茫々になっているのが見えた。この神社から右に下ると大日寺があるらしいのだが、面倒になって立ち寄るのは止めた。ともかくザックが重たいのだ。
すぐに字路に出て、右の道を行く。急な坂道で、「宮坂」という石標がたっていた。
坂道をダラダラ上って行くと、左に天武天皇・持統天皇の勅願所という櫻本坊があった。仁王門があって、小さな赤い仁王像がたっている。境内を覗いたがすごく静かな佇まいであった。
櫻本坊の向かいにあるのが竹林院である。ここにある庭園は群芳園といって、大麻寺、滋光院とともに大和三庭園の一つというので寄ってみることにした。
庭園は造寺のときに造られたものを千利休が桃山風に修築したのだという。おおいに期待して入ったのだが、たいしたことはなかった。もちろん私の庭園鑑賞の感性が低いためなのかもしれないのだが…。
緑の池のふちを巡って、それから築山に登った。山頂はけっこう広くて、東屋がたっていた。



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