日本の童謡の隆盛期、大正後期に彗星のように現れたのが金子みすゞである。彼女は西條八十をして「若き童謡詩人の巨星」と絶賛せしめたすばらしい詩人であった。
ところが、彼女は26歳でこの世を去り、その後忘れ去られてしまうのだ。彼女の詩が再び脚光を浴びるのは、矢崎節夫氏によって手書きのノート三冊が発見されてからである。
私は金子みすゞの大ファンで、一人でも多くの人が彼女の詩にふれて欲しいと思っている。

金子みすゞ記念館
〒759-4106 山口県長門市仙崎1308 TEL 0837-26-5155
http://www.city.nagato.yamaguchi.jp/misuzu/


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2008年5月20日

萩に向かって車を走らせて行くのだが、昨日、金子みすゞの記念館の看板を見たのを思い出した。私は金子みすゞの詩が大好きななので、是非寄りたいと思っている。開館が
10時だったら、待ってでも観てゆきたいと思っている。
彼女は明治36年(1903)に山口県仙崎(今の長門市)に生まれたのである。父は彼女が3歳のときに中国で亡くなって、金子家は下関の上山文英堂の世話で書店を営むようになったのだが、その書店を復元したのが金子みすゞ記念館である。
彼女は大津郡大津高等学校を卒業したが、そのときは卒業生を代表して答辞を読んでいるほどの才女だった。
彼女が初めて童謡詩を発表したのは20歳のときで、本名はテルであったがみすゞのペンネームで雑誌に投稿を始めたのである。時の童謡詩人の大家、西條八十は「若き童謡詩人の中の巨星」と絶賛している。
しかし、金子みすゞは26歳の若さで自らの命を絶ってしまい、その後、彼女のことは忘れられてしまうのだ。
金子みすゞを再発見してくれたのは矢崎節夫氏である。彼は、日本童謡集に登載されていた金子みすゞの詩「大漁」と「お魚」にひどく感銘を受けて、彼女の作品探しを始めるのである。そして昭和57年、ようやくみすゞの弟の上山雅輔氏が手書き詩集、三冊のノートを持っていることがわかって、金子みすゞ全集が出版されるのである。

大漁
朝焼け小焼けだ
大漁だ
大羽鰯の大漁だ
濱はまつりの
やうだけど
海のなかでは
何萬の
鰯のとむらひ
するだろう


看板を見落とさないように慎重に車を走らせて、案内に従って国道191号線から細い道に入ると駐車場があった。そこから少し歩くと昔の本屋さんのような建物があって、これが金子みすゞ記念館であった。これはみすゞが住んでいた家を復元したものなのだ。本屋さんと同じように「金子文美堂」という大きな看板が屋根の上に掲げられている。
受付に入ると、そこがまったく本屋さんの店先で、昭和初期の頃の本が並んでいるのだ。うれしくなってしまう。
書店の奥には居住部もあって、二階にはみすゞの部屋も復元されている。みすゞはよくこの二階の窓から通りを眺めていたという。家の中のあちこちにはみすゞの詩が掲げられていて、カマドや中庭の井戸やなどにはそれを詠んだみすゞの詩が掲示されている。一つ一つ読んでしまった。
この家の奥には、ちゃんとした展示館があって、そこでみすゞの生涯を知ることができる。
パネルをじっくり読んでいたら時間があっというまに過ぎてしまった。
帰りにはみすゞの詩集を買ってしまった。
私は彼女の詩が大好きなのだ。

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金子文英堂の店先


当時の書籍が並んでいる




二階のみすゞの部屋


お風呂場





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