青木周弼旧宅→ 木戸孝允旧宅→菊屋家住宅→旧久保田家→田中義一誕生地→高杉晋作誕生地→平安橋→旧明倫館跡→旧児玉家長屋→堀内鍵曲→口羽家住宅→旧福原家萩屋敷門→益田氏旧宅土塀→旧毛利家別邸表門→天樹院墓所→旧厚狭毛利家萩屋敷長屋→萩城天守台→花江茶亭→福原家書院→志都志神社→東園→旧周布家長屋門→旧益田家物見矢倉→野山獄→常念寺→有備館→明倫館跡

関が原の戦いのあと、西軍に与した毛利家は120万石から36万石に削封されて、広島からこの萩に追いやられたのだ。でも、幕末になると、この萩からは明治維新へ導く志士たちが現れるのだ。



円成寺の入口


青木周弼旧宅


木戸孝允旧宅

 江戸屋横丁

BACK 金子みすゞ館

2008年5月20日

次に萩に立ち寄った。萩はけっこう広いのでレンタサイクルのほうが便利かもしれないが、私はやっぱり歩いてまわることにする。車を萩市民球場に停めて観光をする。ここからは萩の武家屋敷が近いのだ。

いかにも城下町らしい江戸屋横町に入ると、すぐに小さな神社があった。神社かと思ったら、この鳥居の奥に円政寺があるのだ。昔、この寺の住職は小さい頃の伊藤博文を1年ほど預かって読書や習字を教えたというのだが、中には入らなかった。
このすぐ先にあるのが青木周弼の旧宅である。青木周弼は長州藩の藩医(西洋内科)であり、蘭学者である。藩主毛利敬親の侍医や医学館館長を勤め、司馬遼太郎の小説「花神」の主人公村田蔵六(大村益次郎)が萩に出仕したときは親代わりとなって面倒をみたのである。この家は安政6年(1859)に建てられたのだが、あまり改築されていないので、当時様子がよく残っているのだそうだ。
土塀が続く道を少し行くと木戸孝允(桂小五郎)の旧宅があった。幕末における長州を代表的する人物である。桂は萩藩医の和田昌景の長男として生まれたのだが、8歳で桂家の養子になったのである。この家は桂が生まれた和田家なのである。
ここから少し行くと字路で、角には萩城下町の石柱がたっていた




 菊屋横丁
菊屋横丁へ


菊屋の白壁


江戸屋横丁から左折して西に歩いて行くと白壁の大きな商家が見えてくる。「菊屋家住宅」で、白壁の長大な塀が続いている。菊屋というのは萩藩の御用商人だったのだ。

この向かいには旧久保田家が公開されている。呉服商・酒造業を営んでいたというが、向かいの菊屋と張り合っているようなりっぱな建物である。菊屋の見学は500円と有料なのだが、こっちは無料なのでゆっくり見学させてもらった。いかにも商家らしい造りで、庭もきれいであった。
ここから菊屋横丁を南に向かう。左には菊屋の白壁塀が長く続く。この白壁が尽きたところに田中義一誕生地があった。田中義一は陸軍大臣、政友会総裁を経て昭和2年には内閣総理大臣となっている。白壁に囲まれた広場の真ん中に石碑がたっていた。
このすぐ先に高杉晋作の誕生地があった。家には高杉春樹の旧宅と刻まれた石標がたっていた。小さな武家屋敷で、縁側に古い写真が並んでいるだけの有料のわりには見るべきものはほとんどないところだった。



 堀内
新堀川


平安橋


旧明倫館址


旧福原家萩屋敷門


国司親相旧宅址


萩城への道


天樹院墓所入口


菊屋横丁から堀内に向かう。ここまでは萩藩の中・下級武士の城下町なのだが、堀内は上級武士の屋敷が連なるのだ。堀を渡って、西に歩いて行くと渡辺内蔵太旧宅という石碑があった。彼は高杉晋作と共に品川の英国領事館焼き討ちをしたりする過激な経歴を持つのだが、京都の政変後、藩が窮地ときに藩政にあたったりするのだが、幕府の第一次長州征伐のときに政権を握った守旧派によって野山獄につながれ、獄死してしまうのだ。

外堀に沿って少し行き、平安橋でもう一度堀を渡り返す。平安橋は明和年間(176471)に架けられた石橋で、この先が萩城の三の丸になる。
すぐに旧児玉家長屋がある。児玉家は2243石の大身武士で、この長屋はナマコ壁が33mの立派なものなのだ。門の中に入って、屋敷を観ることもできる。なるほど上級武士の屋敷で、桂小五郎や高杉晋作の家とは違う。
静かで緑の多い住宅街を歩いてゆくと、道端に「旧明倫館跡」の石碑があった。享保4年(1719)に創設された防長二州の最高学府だったのだが、今は標石がたっているだけである。嘉永2年(1849)に城下の中央江向に移される(これはあとで訪れるつもりだ)。
ここから少し行くと、塀が石積みのものになって鍵型に曲がる。ここが「堀内鍵曲がり」である。鍵曲がりというのは城下町でよく見られるもので、敵の侵入や攻撃に備えるために、高い塀に囲まれた見通しのきかない鍵手形の道路なのだ。枡形と同じである。
藩政時代のこのあたりは重臣たちの邸宅が立ち並んでいたのだが、維新後はほとんど解体されてしまって、今は夏みかんの畑になっているのだ。萩の代表的な風景である。

鍵形に曲がって、さらに西に歩くと「口羽家住宅」があって、ナマコ塀の立派な門がたっている。萩ではもっとも大きな門である。口羽家というのは、毛利氏の庶流で、石見国の用路城主だったのだが、関が原の後、毛利氏に従って萩に移ってきたのだ。中に入って母屋を見学した。庭からは海に続く広い橋本川を見ることができた。
ここから少し行くと、赤い大きな門がたっている。旧福原家萩屋敷門である。福原家というのは萩藩の永代家老で、江戸中期に萩上屋敷表門としてたてたものである。潜門を両側に設けてあるのが珍しい。
この先の十字路に「国司親相旧宅」の石標があって、ここで左折すると、白壁の塀が長く続いていた。「問田益田氏旧宅土塀」で、長さが231mもあるのだ。問田益田氏というのは永代家老益田氏の分家である。
左折して西に向かうと「旧毛利家別邸表門」があった。これは藩政時代のものではなくて、明治になってから鎌倉の材木座に建てた別邸の表門なのだ。大正になってから、萩に移築されたのである。
このすぐ先に天樹院墓所がある。
天樹院というのは毛利輝元の法名である。輝元の祖父が毛利元就である。織田信長による中国攻めで派遣された羽柴秀吉を向かえ撃ったのが輝元で、その後、豊臣政権では中国の120万石の知行を与えられて、五大老の一人に列せられている。関が原の合戦では西軍の総帥として担ぎ上げられたために、関が原後は中国八箇国から周防・長門の二国だけになってしまう。当然、本拠地を広島から移さなければいけなくなったのだが、徳川に防府、山口、萩のどれらかということで申請したのだが、結局萩ということになったのである。徳川は毛利を、交通の要路である山陽から山陰に押し込めたのだ。萩に移転してから、輝元は関が原の責任をとって隠居する。だから、萩を開府したのは、この輝元なのだ。
私は、中国地方の山を登りながら観光地もめぐっているのだが、今まで岩国、防府、山口、長府の町を観光してきたこれらはすべて長州藩に属する支藩である。毛利が中国の覇者として120万石を有していたときの重臣に、無理をしながらも領土を分け与えたのである。120万石から37万石に減らされてしまったのだから、本当は大リストラをしなければいけなかったのだ。
歴史史が面白いのは、この関が原で受けた恥辱を、毛利の代々は決して忘れることなく、その恨みを幕末において倒幕によって晴らすことになるのだ。
石灯籠の並ぶ、深い林の中の参道を行くと、石柵の中に二つの五重塔があった。毛利輝元夫妻の墓である。




指月橋


毛利輝元公の銅像


萩城の昔の写真
 萩城


天樹院墓所から西にまっすぐに行くと指月橋に着く。これを渡ると旧厚狭毛利家の萩屋敷長屋がある。中に入るのは有料なので外から眺めるだけにした。

この前で右折すると、萩城の石垣や堀の眺めが広がっている。堀を渡ったところに入場券売り場がある。毛利萩屋敷長屋との共通券があったのでこれを買って、あとで寄ることにした。(でも、結局寄らなかった)
高い石垣の間を通って城内に入る。この城跡は指月公園として整備されていて、石の鳥居の向こうには指月山が聳えていた。この山の上には詰丸跡が残っているというので、登って見たくなるのだが、時間がないのであきらめた。
芝生の広がる公園の左に天守閣跡があるので行ってみた。堀に面して高い石垣の台がある。上ってみたら、礎石が並んでいた。この城は明治7年に解体されてしまったのだが、その写真は残っている。白亜五層で桃山初期の形式を示す天守閣である。
公園の中を北に歩いてゆくと、林の中に「花の江茶亭」があった。毛利敬親の別邸にあった茶室を明治20年頃に移築したのだという。敬親は藩庁をこの萩から山口に移した幕末の藩主である。
花の江茶亭の隣にある家老福原家書院は、中が公開されていて、襖絵がきれいであった。
ここから参道を歩いて志都岐山神社にお参りした。でも、この神社は新しいもので、明治11年に毛利元就・敬親を主神として、さらに歴代の藩主を合祀しているのだ。私にとって、あまりありがたみはない。
神社の東には「東園庭園」がある。二代藩主の綱広はこの園内に稲田を設けて自ら耕して勧農の意を示したというが、明治になってこの城が解体されたときに池や庭石は埋められてしまったのだ。現在の庭園は大正になって復元されたものである。
東園の東端で石垣に上ってみたら、青い日本海を眺めることができた。



 城下町外縁
指月小橋を渡る


白壁の道を行く


常念寺


有備館


東園を出て、指月小橋を渡って武家屋敷の通りを東に歩いてゆく。石垣や白壁の塀が続き、すばらしい散策路である。

この通りには旧周布家長屋門があった。周布家は1530石の大組士筆頭で、この長屋門は江戸中期の代表的な武家屋敷建築なのだ。
このすぐ先には旧繁沢家の長屋門があって、さらに旧益田家物見矢倉がある。益田家は萩藩の永代家老で、幕末の敬親のときは、国家老として藩政改革に尽くしたのだが、元治元年の禁門の変の責任をとって切腹させられている。
門は高さ1.8mの石垣の上に格子窓をつけた堅固な造りで、物見も兼ねていたのだ。
さらに城下の北側を歩いて行って、海潮寺の重厚な門を過ぎ、右折したところに野山獄跡があった。その向かいに岩倉獄がある。野山獄は上牢として士分の者を収容して、岩倉獄は下牢で庶民を収容したのだ。野山獄は、幕末に海外渡航に失敗した吉田松陰が収容されたことで有名なのだ。
まっすぐに南に歩いてゆくと常念寺があった。この寺の見所は重要文化財の四脚門である。京都の聚楽第の裏門だったのを、豊臣秀吉から毛利輝元が与えられて、伏見の別邸に移築したのだが、寛永10年(1633)にこの寺に寄進されたという。聚楽第の門だったら、ケバケバしい装飾があるのかと思ったが、簡素なものであった。
あとは車に戻るのだが、その途中で明倫館跡に寄った。
明倫館は現在、明倫小学校となっていて、その史跡の見学はは校内に入らなければいけない。中に入るのは少し気がとがめてしまうのだ。小学校を右に見て歩いて行くと長い板塀の建物があった。これは有備館であった。有備館というのは明倫館の剣術場と槍術場を移したものなのだ。明倫小学校はすばらしくレトロな校舎で板壁の二階建てであった。
国道191号線に出て、これを西に行くと、明治の面影の古い門があって、そこに明倫館跡の石碑がたっていた。ここから小学校の敷地に入った。最近、学校内に侵入して犯罪を起こす異常者がいるので、それに間違えられるのではないかとビクビクしてしまった。


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