関東の旅

鎌倉駅→光明寺(紀主庭園→三尊五祖来迎の庭)→補陀洛寺→九品寺→実相寺→五所神社→来迎寺→長勝寺

最初に行った光明寺は浄土宗の関東総本山というだけあって、すばらしい大伽藍である。ここから鎌倉駅に向かって歩いて行くのだが、途中には小さなお寺や神社が点々として、その一つ一つを訪ね歩くのだ。どうということのない小さなお堂にも、鎌倉の歴史が深く刻まれていて、けっこう感動してしまうのだ。



 光明寺
光明寺総門


三門を境内から振り返る


紀主庭園池


三尊五祖の石庭

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2009910

今日は半日しか観光できないので、鎌倉を全部歩くのは無理になった。近いうちに板東三十三観音の巡礼をするつもりなので、その時に残った寺を回ることにしよう。
まず、鎌倉の南部を歩く。材木座、大町界隈の道である。
鎌倉駅からバスに乗って光明寺まで行った。あとはお寺をめぐりながら鎌倉駅まで戻るのだ。
光明寺前のバス停で降りると、そこは材木座海岸のすぐ近くであった。海を見に行こうかとも思ったが止めた。今回の目的はお寺巡りなのだ。
光明寺は浄土宗の関東総本山で、関東十八檀林の第一位の寺なのである。関東十八林というのは、浄土宗に帰依していた徳川家康が定めたもので、浄土宗の学問所18ヶ寺のことなのだ。
それに恥じない壮大な伽藍である。まず総門をくぐる。どの寺院でもそうなのだが、最初にくぐるのが総門で、名前からしてすごく大きな門を想像してしまうのだが、普通、こぢんまりしたものなのだ。これを通って境内にはいるのだ。すごい広場があって、その向こうに大きな楼門がそびえ立っている。これが三門である。
正面の柱の間は5間もある二階建ての大規模なもので、弘化4年(1847)の建築といわれ、鶴岡八幡宮から移築されたものらしい。
三門をくぐると、正面には本堂が見える。この本堂は元禄11年(1698)の建立で、関東地方でも最大級の本堂である。関東大震災においてもほとんど損傷することなく、建立当初の姿をよくとどめていて、重要文化財に指定されているのだ。
本堂の左には開山堂があって、回廊によって結ばれている。本堂から回廊にまわると、蓮池の庭園を見ることができる。これが記主庭園で、小堀遠州作といわれる池泉庭園である。「紀主」ってナンダと思ったら、開山良忠上人の諡号なのだ。池には蓮の葉が茂っていて、ピンクの花も咲いていた。この蓮は2000年前の種を開花させたものなのだ。
本堂の右手には枯山水の庭がある。「三尊五祖来迎の庭」というのだが、そんなに古いものではなくて昭和48年作なのだ。三尊というのは阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩のことで、五祖というのはお釈迦様から光明寺の開山良忠上人に至るまでの念仏を弘めた五人の高僧のことなのだ。庭石のそれぞれにはこの三尊五祖の名前がつけられているのである。



 補陀落寺・九品寺
補陀洛寺の百日紅


九品寺本堂


光明寺の次に訪れたのは補陀落寺である。文覚上人によって開山され、源頼朝の祈願所となった真言宗の寺である。
文覚上人のことを述べ始めると長くなってしまうのだが、かつては北面の武士として鳥羽天皇の皇女に仕えていたのだが
19歳で出家してしまう。この出家は渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕して誤って殺してしまったことによると「源平盛衰記」に書かれている。カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した長谷川一夫と京マチ子の主演の映画「地獄門」はこのエピソードを基にしている。
創建当時は七堂伽藍の大寺院だったらしいのだが、今は狭い境内に本堂があるだけである。私が訪れたとき、境内の真ん中に百日紅(サルスベリ)の木があって、ピンクの花を咲かせていた。

ここから少し行くと九品寺がある。本当に狭い境内で本堂があるだけである。ここは新田義貞が鎌倉を攻めたときに本陣をおいたところで、鎌倉幕府を倒した後に戦死者を弔うために建立されたのだ。



 実相寺・五所神社・来迎寺
実相寺境内から寺門を振り返る


五所神社入り口


来迎寺


九品寺のすぐ先で右の路地に入り、少し行くと実相寺に着く。この寺は曾我兄弟に討たれた工藤祐経の屋敷跡にたっているのだ。祐経の孫にあたる日昭上人が開いたという。

実相寺のすぐ先には五所神社がある。
道の右に石の鳥居があって、入り口には「村社五所神社」と刻まれた石柱がある。東に続く長い参道を行くと、お寺の本堂のような社殿がある。明治41年(1908)に材木座の5つの神社を合した鎮守社で、私が特に見たかったのは弘長2年(1262)の銘がある石造り板碑である。それと、境内にたくさんの庚申塔があって、そこに刻まれた三猿や荒神を見てまわるのもけっこう楽しいのだ。

道に戻って少し行くと、右手に来迎寺がある。住宅に囲まれた狭い境内に本堂だけが建っている。この寺の見所は三浦義明の五輪塔とその一統の石塔群である。

三浦義明は相模国三浦郡衣笠城の城主で三浦半島一帯に勢力を持っていたのだ。治承4年(1180)、源頼朝が挙兵したときに一族を挙げてこれに合流しようとしたのだが、頼朝は石橋山の戦いであっという間に敗北、やむなく引き返して衣笠城に籠城したのだ。結局奮戦むなしく戦死してしまうのだが、後に頼朝は三浦義明の菩提を弔うためにこの来迎寺を建立したのである。
本堂の右手には大きな五輪塔が二基あった。右が三浦義明の墓で、左は多々良重春のものである。本堂の後ろにはたくさんの石塔が並んでいる。これが三浦義明と共に討ち死にした一統の墓である。石塔群の上に咲いているピンクの百日紅が場違いなほどにに鮮やかであった。



 長勝寺
長勝寺の門


長勝寺本堂


来迎寺から道に戻って再び北上すると、すぐに右折して、左に
JR横須賀線を見ながら歩いて行く。交差点から右に入って、再び右折すると長勝寺である。
長勝寺本堂は、鉄筋コンクリートの真新しい建物である。本堂前の広場には四天王像がたっていて、その真ん中に日蓮上人像がある。この日蓮像は高村光雲作だというのだが、私は日蓮があまり好きでないので、写真を撮らなかった。(日蓮の宗教人らしからぬ攻撃性がイヤなのだ)
本堂の左の丘に石段が続いているので上ってみると、法華三昧堂があった。その隣には鉄筋コンクリート造りの本師堂がある。ガイドブックによると裏の墓地には赤木圭一郎の像があるというので上ってみることにした。赤木圭一カというのは日活アクション俳優で、マイトガイ小林旭、タフガイ石原裕次郎につづく第三の男と呼ばれたのだが、21歳の若さで亡くなってしまったのだ。


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