湊山公園→青洞寺跡→廻船問屋後藤家住宅→寺町通り(横田内膳の墓)→土蔵群→旧米子市役所→中江藤樹記念碑→米子城址→内膳丸→駐車場

米子は伯耆18万石の中心として栄えた城下町である。市街の真ん中を加茂川が流れ、この川に沿って土蔵が立ち並ぶいかにも商業の街である。城山に上ると天守はないが石垣残っていて、ここからの眺めは本当にすばらしいのだ。


 湊山公園
駐車場から公園に入る


中海が展望できる


紅葉がきれいだった




BACK 船上山

20081116日(日)

今日は雨なので、登山は止めて米子の観光をしようと思う。
米子は江戸時代、伯耆18万石の中心として栄えた城下町である。街のあちこちにその面影が残っているというので、傘をさしてのんびり巡ることにした。
出発は広い駐車場がある湊山公園である。ただし、この公園の駐車場は17時に閉鎖されるので、それまでに戻って来なければいけない。出発は1040分、17時には余裕で戻って来れるはずだ。
公園に入って行くとすぐに噴水があって、そこに出逢いの像という彫刻がたっている。私は各地の公園を訪ねることが多いのだが、そこに置かれた彫刻というのは美術館でみるものとかわらないほど傑作が多いのだ。
この噴水広場から左に行って、階段を上ると海が広がっていた。これは日本海ではなくて、島根半島によって隔てられた中海なのだ。
噴水広場からメイン通りを北に向かって歩いて行くと、蒸気機関車D51があった。昭和30年頃、SLは全盛だったのだが、昭和40年に入ると急速にディーゼル化や電化が進んで、あっという間にSLは姿を消してしまったのだ。煙をモウモウと上げて走るSLの姿はすてきなのだが、吐き出す煤煙は公害と同じなのだ。今、SLを見ようと思ったら土日祭日などに観光用に走るものしかなくて、あとはこうした公園に置かれたものを見るしかない。私が均一周遊券で全国を旅していた二十歳の頃、SLを見ることも多かったのだ。その頃、すでに消えて行く運命にあったため、鉄道ファンが沿線に三脚を立てて並んでいたのを思い出してしまう。
公園を北に歩いて行くと、道に沿って抽象的な彫刻が並んでいる。私は、絵でも彫刻でも抽象的なものはよく理解できないのだ。




青洞寺跡の池


廻船問屋後藤家住宅


廻船問屋後藤家住宅
 青洞寺跡から廻船問屋後藤家住宅へ


湊山公園から出て車道を渡ると、大きな池がある公園に入る。池の中之島には大きな松が生えていて、巨岩がいくつも置かれているのが見える。これが青洞寺跡であった。
池に沿って歩いて行くと青洞寺の説明板があって、そのそばには納経札がいっぱい貼られた板が立っている。ここは地蔵信仰札打ち供養打ち止めの聖地なのだそうだ。
巨岩が重なるその前には立派な五輪の塔が三基並んでいる。右の一基は慶長
15年(1610)に米子城主になった加藤貞泰が父の菩提を弔うためにたてたもので、他の二基は元和三年(1617)に加藤氏の後に城主となった池田由成が亡くなった父母のためにたてたものである。
それにしてもこの巨岩の重なりはすごいと思って見ていたら、これはかっては中海に浮かぶ岩島で、亀島と呼ばれていたものなのだ。このあたりは埋め立て地だというから、昔は島だったのかと感心してしまった。
鳥居をくぐって広い車道に出て、信号でこの広い道を渡っる。民家が密集する細い道を北に向かって歩いて行く。川にかかる橋が見えて来ると、その手前左にすごく立派な日本家屋がたっている。これが廻船問屋後藤家住宅である。

江戸時代に海運業を営んでいた後藤家が寛政年間(17891801)に建てたもので、母屋と二つの蔵が重要文化財に指定されているのだ。内部は非公開になっているので外から観るしかないのだが、加茂川の対岸からみると豪邸と呼ぶにふさわしいりっぱなものであった。



 寺町通りから倉庫群へ
古い町並みを行く




横田内膳の墓


土蔵群に着いた


加茂川にかかる京橋を渡って200mほど北に歩き、右折して寺町通りに入る。寺町通りは東西に走っていて、通りの北側に9つの寺が並んでいるのだ。
まず、立派な山門のたつ心光寺に寄ってみた。ここには天保年間につくられた池泉鑑賞式庭園があるのだ。でも、その庭園は本堂の後ろにあるので、入ることはできなかった。
いかにも寺町らしい辻塀の続く道を歩いて行く。法蔵寺・実成寺と過ぎて妙興寺に寄った。ここには米子市の文化財に指定されている横田内膳の墓があるという。慶長5年(1600)に米子城主となった中村一忠はわずか12歳で、これを補佐して米子城の築城や城下町造りを行ったのが横田内膳なのだ。でも、その手腕を妬む側臣の讒言で15歳になった主君によって暗殺されてしまうのだ。こうした側臣によって有能な者が貶められるというのは中国の歴史だけかと思っていた。横田内膳の墓に手を合わせてこの寺を辞した。
寺町が尽きたところで、右折して南に向かう。再び加茂川に出て、ここに架かる天神橋を渡って振り返ると土蔵が並んでいる。大正初期まで、米子港に着いた物産は加茂川を遡ってこの倉庫群まで運ばれて、商業の中心として栄えていたところなのだ。
加茂川に沿って歩いて行くと、「加茂川・中海遊覧船」という横幕が張られたボートが繋がれていた。そんな遊覧船が運航されているとは知らなかった。
広い通りを東に300mほどて行くと国道9号線に出て、これを右折したところに「米子市立山陰歴史館」があった。赤煉瓦のタイル張り3階建てで、昭和5年建築の米子市役所の旧館なのだ。展示品に見るべきものはほとんどなかったが、風格ある建物がよかった。
この歴史館の向かいには米子市美術館がある。こちらの建物はすごく新しい。
このすぐ近くで「中江藤樹先生成長の地」と書かれた大きな石柱を見つけた。中江藤樹は江戸時代初期の人で、日本陽明学の祖と言われる偉人なのだ。近江に生まれたのだが、米子藩の150石取であった祖父の養子になって、9歳の時この米子にやって来たのである。でも、翌年には伊予国大洲に移住したので、米子にいたのは1年余りにすぎない。こんな立派な石標を建てる意味があるんだろうかと思ってしまった。




枡形


城山への登山道。石仏がたっている


本丸直下


本丸から中海を見下ろす


内膳丸から本丸を振り返る
 米子城


国道
8号を南に歩いて行くと、行く手には樹林に包まれた小山が見えてくる。この上に米子城があったのである。
元和元年(1615)、徳川幕府が一国一城令を発したことによって、米子藩の居城は鳥取城なので、この城は取り壊さなければいけなかったのだ。でも、天守閣までそなえているのだが、例外として認められたのである。
コスモ石油のある交差点から右の細い道に入って、緩やかな坂を行くと石垣があった。枡型の遺構で、ここからも本丸に上ることはできるのだが、このすぐ先に「城山大師」があるので、これをお参りする。その後で正面登頂口から本丸を目指そうと思う。

すぐにお地蔵様が立つお堂に着いた…、と思ったらお地蔵様ではなくて弘法大師であった。この隣の小屋には「城山石仏めぐりコース」の案内図があった。番号を見ると88番まであるので、四国遍路の札所と同じである。ここが1番札所になっていた。
すぐに頂上登り口という指導標があって、これに従って急な石段を上って行く。鬱蒼とした樹林の石段道を行くと石仏がいくつか置かれている。これはさっきみた札所巡りの石仏なのだ。
ジグザグに上って行くと、ようやく本丸の石垣が見えてきた。鉄御門跡という標識を見て、広い石段を上ると明るい本丸広場に出た。ここからは米子市街を一望できるのだ。
本丸広場から一段高くなったところに天守跡がある。礎石が残っていて、そのなかに三等三角点があった。三角点があるのなら、ここは立派な山頂である。なんかうれしくなった。

真っ青な海を眺めて少し休憩。朝は雨だったが、日がさし始めている。
本丸の石垣の下を横切って、もう一つの天守があったという内膳丸を目指す。米子城には天守閣が二つ聳えていたのだ。樹林の山道を歩いて行くと十字路があって、まっすぐに行くと内膳丸である。石垣の間の平坦な道を行くと、広場に出た。東屋もたっているのだが、展望はない。ここが内膳丸である。振り返ると樹林の小山の上に石垣が見える。さっきまでいた本丸なのだ。
十字路に引き返して、西に向かって急な石段を下る。鬱蒼とした樹林の中をジグザグに下って行くのだ。
下りきったところが湊山公園の登山口である。車を置いた湊山公園はすぐそこである。
まだ13時20分であった。


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