山口は室町時代にこの地方を支配した大内氏の本拠地であった。大内氏はこの山口に京の町を再現しようとし、京からは多くの公卿や文化人を招き、「西の京」と呼ばれるほどの文化が咲き誇ったのだ。

山口県立美術館→山口ザビエル記念聖堂→亀山公園→パークロード→山口県立博物館→山口県政資料館→→藩庁門→山口大神宮→洞春寺→勅撰銅碑→毛利家墓所→瑠璃光寺→八坂神社→西田幾多郎住居→山口ふるさと伝承総合センター→龍福寺→一の坂川


 常念寺
常念寺総三門


雪舟の銅像


円月庭


本堂


BACK 東鳳翩山

2008年5月16日

山口の市内に入って、まず常念寺に行った。もう
1520分になっているので、拝観手続きの必要なところは閉まってしまう前に見ておかなければいけない。
常念寺は雪舟の造った庭園があることで有名なのだ。雪舟といったら水墨画なのにどうして庭園なのだと思ってしまうのだが、雪舟が中国で水墨画を学んで日本に帰って来たあと、大内氏の依頼でこの庭園を造ったのである。
三門の築地塀の前には雪舟の銅像があったが、これは新しいものである。
三門をくぐって境内に入ると広場の真ん中に植え込みで丸く囲った小さな庭がある。これが「円月庭」なのだが、そんな大層な名前と違って、こぢんまりしたものである。
この広場の奥に鐘楼門がある。鐘楼門をくぐって、本堂と書院の間を抜けると庭園である。禅宗の寺なのだから枯山水の庭だと思ていたら、庭は一面緑の芝生で覆われていた。
その芝生の中に無数の石が点在している。ひどく散漫に見えて、どうにも優れた庭とは思えなかった。
石にはそれぞれ名前もついているのだが、どれがどうなのかよくわからない。
庭の奥に心字池がある。水面には水草が浮かんでいるので、これもあまりぱっとしない。池の中にも石が置かれていて、亀島とか舟島という名前がついているのだ。
本堂の前を通って、左からこの庭園のぐるりを巡ってみる。
庭園の後ろには、石で囲われた中に雪舟の筆塚と大内政弘の母の墓があった。この寺院は大内政弘が母の菩提を弔うために建立したのだから、その墓があって当然なのだが、筆塚と並んでいるというのも不思議な感じがする。墓はこけむしていて、けっこう趣があるのだが、筆塚はどこにでもあるような自然石で、その横の標識が異様に目立っていた。
緑の林の中をのんびり歩いてゆくと、茅葺きの東屋があった。聴松軒という名前がついている。このすぐ先で林から抜け出して、本堂に戻る。
庭園を本堂から眺めて見ることにする。本堂に上がると、さっきの庭園の反対側に枯山水の庭があった。南溟庭というのだ。




山口県立美術館


ロードパークの噴水


坂の途中にあった


ザビエル記念聖堂


山頂の亀山公園


パークロード
 亀山公園周辺


常念寺から車を走らせて山口市街に戻る。さて、どこに車を停めようかと悩んだが、私立図書館・美術館の無料駐車場があったので、ここに停めることにした。ただし、
19時には閉鎖されてしまうので、それまでに戻ってこなければいけない。
山口という街は、室町時代にこの地方を支配した大内氏が政庁を置いたのだが、山内氏は京にあこがれて、京と同じ町並みを造営し、さらに京から多くの公卿や文化人を招いたのである。西の京と呼ばれるほどの文化の花が咲いたのだが、その名残が最後に訪ねるつもりの瑠璃光寺である。
駐車場を使わせてもらったので、まず美術館に行った。
次にこの美術館の後ろにある山口ザビエル記念聖堂へ行く。近いと思ったら聖堂は山の上にあって、しかも道はすごく遠回りするのだった。
坂道を登って行くと、近代彫刻のようなすごいオブジェがたっているのが見える。いったいこれは何だと思ったら、これがザビエル記念聖堂であった。私は30年ほど前に山口を訪れたことがあるのだが、そのときはすごく歴史を感じさせる教会だったのに、いったいこれはどうしてしまったのだと思う。
教会の入り口手前にはザビエルの銅像がたっていた。これは昔と同じである。
「井戸端で説教するフランシスコ・ザビエル」の像である。ザビエルは毎日二回、山口の大殿小路という通りに出かけて、そこにあった井戸端で布教活動をしたのだという。
ここから右折して聖堂に向かうと、目の前にはすさまじい近代建築がそびえていた。これが教会とはとても思えない。かっての聖堂は1952年に建てられたのだが、1991年に焼失してしまったのである。そして、今の聖堂は1998年に再建されたものなのだ。
建物は真っ白な三角形である。これは聖書に記された「神の幕屋(テント)」をイメージしているのだという。そして屋根には煙突のような四角い塔が二本たっている。
左は時計塔で、上のオブジェは世界に平和をもたらすキリストを意味している。そして左は鐘塔で、そのオブジェは天からのメッセージを表しているのだという。私には抽象的すぎてよくわからない。
中に入るとまず「クリスチャン記念館」で、ザビエルの手紙などが展示されていた。もちろん中は撮影禁止なので、写真で紹介することはできない。
礼拝堂も近代彫刻のような造りで、ステンドグラスも抽象画である。私には、どうにも信仰の対象ととしての重厚さ、神聖さがないように思えてしまうのだが、今の感覚ってこんなものなのだろうか。

記念聖堂からさらに登って行くと、山頂はきれいな公園になっていて、毛利敬親の銅像がたっていた。毛利敬親は幕末の長州藩主で、この藩主のもとで薩長同盟・倒幕が行われたのである。江戸時代、長州藩の政庁は萩にあって、山口は周防国の一地方町にすぎなかったのだが、文久3年(1863)に毛利敬親は藩庁をこの山口に移転したのである。そのおかげで、山口県の県庁はここになったのだから、銅像がたてられて当然なのだ。
この公園からは瑠璃光寺の五重塔を眺めることができた。

公園から急な石段を下ってパークロードに降り立つ。樹林の広い道を北に歩いて行くと、左に山口県立博物館があった。私は博物館が好きなので入りたかったのだが、もう時間は17時になっていて入館はできなかった。博物館の前の広場にはSLが展示されていた。



 山口県庁界隈
旧山口県庁


山口大神宮の石段


内宮


パークロードから広い交差点を地下歩道で渡ると山口県庁である。県庁ビルの手前には山口県政資料館がある。この建物は大正
5年(1916)に建てられたもので、県庁舎だったのだ。大正時代らしい重厚な建物である。
この右奥には、同じ時に建てられた旧県会議事堂もある。これらは共に国の重要文化財である。
県庁の敷地を西に向かうと、左に江戸時代の門が残っていた。これは毛利敬親が萩からこの山口に藩庁を移したときの表門なのだ。

県庁の敷地から五十鈴橋を渡って外に出て、山口大神宮に向かう。この神社は大内氏30代の義興が伊勢神宮を勧進して創建した古社である。渡った五十鈴川というのは伊勢神宮に流れる川の名前である。
すごく広い石段を上って行く。石段を上りきったと思ったら、ここで直角に曲がって、さらに石段を上る。

上りきったところには正面左に社殿があって、さらに右の一段高いところにも社殿がある。左が外宮で、右が内宮なのだ。
外宮の右には遺跡のような空き地があって、内宮の左にも同じような空き地がある。
これは社殿を建て替えるための空き地なのだ。伊勢神宮は21年ごとに社殿を建て替える(遷宮)のだが、この山口大神宮でも同じく21年毎に建て替えが行われ、その用地がこの空き地なのである。




洞春寺中門


本堂


毛利家墓所
 洞春寺界隈


再び県庁に戻って、この敷地を西に横断する。県庁東門から外に出て、通りを北に歩いて行く。突き当たりにあるのが洞春寺である。

この寺の山門はそんなに大きくはないのだが、檜皮葺ですごく品がいい造りである。洞春寺は毛利元就の菩提寺なのだが、その以前は大内氏の建立した国清寺があって、山門は国清寺の創建当時のものなのだ。国の重要文化財である。
さらに中門をくぐって本堂の前に出る。本堂はたいしたことはないのだが、この境内にある観音堂がすばらしい。国の重要文化財である。でも、この観音堂はこの寺にあったのではなくて、大正4年に滝の観音寺にあった禅宗様式の仏殿を移したものなのだ。

洞春寺を出て瑠璃光寺に向かう。林の中を歩いて行くと、立派な顕彰碑がたっていた。「勅撰銅碑」で、明治天皇が毛利敬親の明治維新の功績をたたえて建てたものなのだ。近寄って見たら、石碑ではなくて銅板であった。
この前を左折すると石畳が毛利家墓地に続いているのだが、この石畳は「うぐいす張り」なのだ。手を叩くか強く足踏みをすると、美しい音が返ってくるというので、やってみた。あまり反応はなかった。



 瑠璃光寺
瑠璃光寺山門


本堂


鎮守石殿


雪舟の胸像


墓地から右に少し行くと瑠璃光寺の境内に着く。境内へは左から入った形になって、すぐに梅園がある。その梅園の中には大内弘世の騎馬像がたっていた。弘世は大内氏
24代なのだが、瑠璃光寺の前身である香積寺を創建したのは25代の義弘である。なんで弘世なんだと思ってしまう。
香積寺は毛利氏が藩庁を萩としたときに解体されて萩に移ってしまい、その跡地に移転してきたのが瑠璃光寺なのだ。瑠璃光寺は大内氏筆頭家老の陶弘房の菩提寺で、もとは山口市の奥地仁保にあったのだ。
この梅園の向こうには五重塔が見える。でも、この見学は後にして本堂にお参りする。山門をくぐって境内に入ると、石段があってその奥に本堂がある。石段の両脇は池である。
本堂の前には、右に仏足石、左に知足の手水鉢があった。新しいものである。
山門を出て五重塔に向かう。門を出たところに古い石の祠があるのに気がついた。これは「瑠璃光寺鎮守の石殿」といって、瑠璃光寺がまだ仁保の地にあったころ、寺の鎮守として慶安3年(1650)に造立したものだというから、古いはずである。
瑠璃光寺五重塔は国宝である。嘉吉2年(1442)、香積寺境内に建立されたもので、香積寺は萩に移ったが五重塔はこの地に残されたのだ。高さは31.2m、大内氏隆盛時の華やかな文化の香りを残す建築物である。
五重塔から池の畔を歩いて行くと、司馬遼太郎の文学碑があった。街道をゆくの長州路の一文が彫られている。
そのすぐ先には若山牧水の歌碑があった。牧水は郷里の宮崎県に帰省する途中に、瑠璃光寺を訪ねたのである。

はつ夏の 山のなかなる ふる寺の
古塔のもとに 立てる旅人


さらに池をめぐって行くと、雪舟の胸像もあった。
池を前景にした五重塔はすばらしくきれいであった。




一の坂川


西田幾多郎の住居


伝承総合センター
 大内氏史跡をめぐる


瑠璃光寺を後に、東に歩いて行くと小さな川を渡る。これが一の坂川で、大内氏が京の鴨川になぞらえた川なのだ。

川を渡ったところで右折して細い道を真っ直ぐに歩いて行くと、神社の参道があった。ここは大内氏遺跡の一つで、28代教広の築山館があったところなのだが、その跡はまったくなくなっていた。神社の名前は八坂神社で、これも京都の八坂神社を勧進したものである。本殿は重要文化財に指定されている。この神社の祭礼は京都と同じく720日から七日間行われ、山口の祇園祭として有名なのだ。大内氏は本当にこの地に京都を再現しようとしていたらしい。
赤い大きな鳥居をくぐって、さらに南に歩いて行くと、西田幾多郎の住居があった。西田幾多郎は明治309月から山口高等学校に勤務となって、ここに住んだのだが、その期間は1年余りにすぎない。
このすぐ先に山口ふるさと伝承総合センターがあったが、時間はもう18時になっているので中には入れない。でも、広い駐車場の奥には白壁の民家があった。明治24年建築の旧美禰家住宅で「みやび館」という看板が下がっていた。
ここから少し左に入ると龍福寺がある。ここは大内氏が代々本拠とした館跡なのである。寺の裏には大内氏館の池泉庭園跡があるのだが、発掘調査の真っ最中であった。この周辺は「大内氏館跡」として、大々的に整備されるらしい。
伝承総合センターの十字路から西に向かって、琴水橋で一の坂川を渡る。川には草が生い茂っていて、天然記念物のゲンジボタルが生息する清流である。遊歩道にはゲンジボタルのパネルが埋め込まれていた。
真っ直ぐに西に向かうと車を置いた駐車場である。
車の前に戻ったら1840分であった。


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