BACK 大宇陀
2008年11月24日
黒門から少し行くと、すごく古い商家があった。これが植田家住宅で、屋号は「鍵屋」、油を商っていたことから「あぶらや」とも呼ばれるらしい。江戸末期の建築で、中規模の典型的な商家である。
植田家のすぐ傍に、古い標石があった。「右 大峯山上、左 京・大坂」と読めた。
すぐに国道370号線に出て、あとはこの道を南に向かって歩いて行くと道の駅に戻れるのだ。でも、この国道沿いが「伝統的建築物群保存地区」で、すばらしい町並みが続く。
元和元年(1615)に宇陀の所領を得た織田信雄は城下町を整備して、400軒を越える商家で賑わうことになったのだ。元禄年間に織田家が転封となったとき、織田家に関する施設は全て取り壊されてしまったのだが、町人町だけは残ったのだ。元来この地は奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地を結ぶ要衝の地で、城下町としての機能は失っても、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商が軒を並べて「宇陀千軒」と呼ばれるほどの繁栄を誇ったのだ。その繁栄した商家のたたずまいが今も残っているというわけである。
昔の赤いポストが立つ古い商家があって、その先には漢方薬剤の平五薬局であった。
次にあった商家は森田家住宅で、江戸時代後期の建築。屋号は「諸木野屋」で、薬を含めた雑貨を商っていたが、明治初年に商売は止めてしまって、現在、住居者もいないのだ。戸袋に薬の看板が並んでいて、「五龍園」という文字が読めた。
森田家の向かいには「天寿丸」という看板が目立つ「薬の館」がある。江戸末期の建築で、松山地区のシンボルでもある。
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