伝統的建築物群保存地区

黒門→植田家住宅→平五薬局→森田家住宅→薬の館→まちづくりセンター(旧内藤家住宅)→大願寺

私は日本全国を旅しているのだが、その旅で絶対に立ち寄ることにしているのが「重要伝統的建築物保存地区」なのだ。歴史的に価値の高い建造物そのものだはなくて、建造物をとりまく環境も含めエリアごと文化財として保存対象とするものなのだ。2009年時点で日本全国に85カ所が指定されていて、この宇陀松山地区は2006年に指定されたのだ。


 伝統的建築物群を行く
薬の館(旧細川家住宅)


山邊家


黒川家

BACK 大宇陀

2008年11月24日

黒門から少し行くと、すごく古い商家があった。これが植田家住宅で、屋号は「鍵屋」、油を商っていたことから「あぶらや」とも呼ばれるらしい。江戸末期の建築で、中規模の典型的な商家である。
植田家のすぐ傍に、古い標石があった。「右 大峯山上、左 京・大坂」と読めた。
すぐに国道
370号線に出て、あとはこの道を南に向かって歩いて行くと道の駅に戻れるのだ。でも、この国道沿いが「伝統的建築物群保存地区」で、すばらしい町並みが続く。 元和元年(1615)に宇陀の所領を得た織田信雄は城下町を整備して、400軒を越える商家で賑わうことになったのだ。元禄年間に織田家が転封となったとき、織田家に関する施設は全て取り壊されてしまったのだが、町人町だけは残ったのだ。元来この地は奥宇陀・吉野・伊勢方面と奈良盆地を結ぶ要衝の地で、城下町としての機能は失っても、薬問屋や紙問屋をはじめとした各種問屋、小売商が軒を並べて「宇陀千軒」と呼ばれるほどの繁栄を誇ったのだ。その繁栄した商家のたたずまいが今も残っているというわけである。
昔の赤いポストが立つ古い商家があって、その先には漢方薬剤の平五薬局であった。
次にあった商家は森田家住宅で、江戸時代後期の建築。屋号は「諸木野屋」で、薬を含めた雑貨を商っていたが、明治初年に商売は止めてしまって、現在、住居者もいないのだ。戸袋に薬の看板が並んでいて、「五龍園」という文字が読めた。
森田家の向かいには「天寿丸」という看板が目立つ「薬の館」がある。江戸末期の建築で、松山地区のシンボルでもある。



 まちづくりセンター


松山地区の古い町並みを眺めながら歩いて行くと、「まちづくりセンター千軒舎」があった。

新しい建物なのだが、明治前期に建てられたという旧内藤家住宅で、平成1212月に大宇陀町に寄贈され、平成15年に半解体修理を行なったあとにまちづくりセンターとして開館したのだ。
千軒舎という名前は、かって松山町が「宇陀千軒と呼ばれるほどの賑わいをみせていたことから、現代の宇陀千軒を実現したいという気持ちえお込めて名付けたのだ。
中は自由に見学できて、伝統的建築物群の説明パネルがあって、すごく勉強になるのだ。
まちづくりセンターから少し歩くと、道の駅に着いてしまった。





道の駅に戻った


道の駅から紅葉の坂を上る


大願寺境内
 大願寺


さあ、次は飛鳥に行こう…とガードブックを開いたら、この道の駅のすぐ裏に大願寺という聖徳太子ゆかりの寺があることに気がついた。これは寄って行かなければいけない。

道の駅から細い階段を上って舗装道に着き、これを横切ったところに大願寺の石段がある。
小さな山門をくぐって境内に入ると、紅葉が真っ盛りですばらしくきれいであった。境内には老人の一団がいて、盛んに写真撮影をしていた。大願寺は紅葉の名所だったのかとも思った。
この寺は聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立させたという古刹で、薬草料理が食べれるということでも有名なのだ。

庭園のような広い境内の正面に一段高いところがあって、そこに左から小さな社、毘沙門堂、本堂と並んでいる。毘沙門堂正面に石段があって、その上り口には一対の狛犬が置かれている…と思ったら、これは狛犬ではなかった。黒豹のような獰猛な顔をしていて、狼らしい。
毘沙門堂の前を右折すると本堂である。本尊は十一面観音で、神亀元年(724)に徳道上人が彫ったものだという。思い出してしまうのだが、徳道上人といったら大和桜井の長谷寺、鎌倉の長谷寺、両寺の十一面観音を彫った人である。ここに安置される観音像も長谷寺と同じ形式らしい。
境内には仏足石や庚申塔がある。このうち庚申の像が素朴ですごくいい。
紅葉を眺めながら、道の駅に戻った。


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