永明寺を出て次に乙女峠に行くことにした。永明寺からも乙女峠に上ることはできるのだが、北側から上って往復するつもりだ。ここからのほうが峠のマリア聖堂が近いのだ。
峠の入り口にはトイレと駐車場があるので、ここに車を置いて乙女峠に登って行く。
緑の樹林の中に遊歩道が続いている。左手には小さな流れがあって、これに沿って5分ほど上ると、小さな教会の塔が見えてきた。ここが乙女峠であった。
乙女峠という名前に反して、ここには切支丹弾圧の壮絶な過去があるのだ。切支丹弾圧といったら、江戸時代初期の鎖国前夜のことかと思ってしまうのだが、幕末の明治維新を迎える直前のことなのだ。
開国がなってから、長崎で4000人ほどもの隠れ切支丹が名乗り出るのだが、そのうちの数人が当時フランス寺と呼ばれた大浦天主堂に入り、サンタマリア像に祈るのだ。開国がなったのだから、当然キリスト教の信仰も許されると思われたのだが、そうはならなかった。約3400人の隠れ切支丹は各地に流罪となるのである。鹿児島・萩・名古屋などの二十ヶ所が選ばれたのだが、その中の一つがこの津和野で、153名を収監することになる。
津和野は神道研究が盛んだったからなのだが、当主亀井慈監は隠れ切支丹に改宗を迫り、すさまじい拷問を行うのだ。その拷問が行われたのが乙女峠である。このために、36人が殉教することになる。切支丹が津和野に送られたのは明治元年(1868)のことで、宗教の自由が認められる明治6年まで弾圧は続いたのだ。悲惨としかいいようがない。
この峠に立つかわいらしい教会がマリア聖堂で、津和野カトリック教会の岡崎祐次郎神父が昭和26年に建てたものである。
教会には優しげな尼さんがいて、観光客に対応していた。中に入ると抽象画のようなステンドグラスがきれいであった。
教会の広場を囲むように、殉教者を悼む碑がいくつもたっていた。私はここから津和野市街に引き返すつもりでいたのだが、殉教者の墓まで散策路があるので行ってみることにした。
尾根を南に歩いてゆく。これは「十字架の道」といって、
道に沿って、キリストが十字架にかかって復活するまでの物語のレリーフがたっていた。これを見ながら山道をのんびり歩いて行った。
15分ほどで殉教者の墓に着く。谷のあちこちに散らばっていた殉教者の遺骨をここに集めて、明治25年にビヨリン神父が石碑をたてたのである。
「為義而被害者乃冥福」と刻まれた石碑の横にはキリスト像がたっていた。私はキリスト教徒ではないのだが、合掌した。
ここからマリア聖堂に引き返すのはつまらないので、永明寺に下ることにした。こんなことだったら、先にこの寺参拝するんではなかったと思った。
東に下って行くと10分ほどで永明寺に着いた。
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