永明寺(森鴎外の墓)→乙女峠→マリア聖堂→十字架の道→殉教者の墓→津和野市街→安野光雅美術館→葛飾北斎美術館→古い商家町並み→沙羅の木→津和野カトリック教会→殿町→養老館→多胡家家老門

津和野は青野山の麓に細長く家並みが続く小さな城下町である。特に殿町の白壁の塀に沿って続く水路に鯉がが泳ぐ景観はすばらしいのだ。
私はここを何度も訪れているのだが、青野山の登山のあと時間が十分あったのでじっくり散策することにした。



 津和野のこと・永明寺
永明寺の門


鐘楼


川津匂子の歌碑



BACK 青野山

2008年5月21日

津和野は武家屋敷を残す城下町で有名なのだが、長州藩の支藩だとずうっと思っていた。でも、地図をよく見ると島根県に位置し、江戸時代は石高
4300石の亀井氏の治める独立した藩だったのである。
関ヶ原の戦いの後で津和野の城主になったのは柿崎出羽守であった。柿崎は落城する大阪城から秀頼の妻となっていた千姫を救い出した武将である。救い出せたら千姫を柿崎の嫁にするという約束だったが、これは秀忠によって反故にされてしまい、結局、自刃することになるのだ。
柿崎の後に入ったのが因州鹿野城主だった亀井氏で、明治に至るまで藩主だったのである。
津和野の町中にある駐車場はすべて有料で、車を走らせて乙女峠の方に向かった。永明寺には参拝者用の駐車場があった。
このお寺には森鴎外の墓があるので行ってみた。石段を登って立派な門をくぐる。
境内に入ると広場で、右に中門があってその奥に立派な本堂がある。この中に入るのは有料である。森鴎外の墓は広場の左の墓地の中にある。墓はすぐに見つかった。森林太郎の墓と刻まれた墓石であった。でも、なんかウソくさい。あとで置いたものではないかという気がする。森林太郎という刻みかたからしておかしい。普通は森家代々の墓とかになるものではないのか。…とあれやこれや考えながら永明寺をあとにした。でも、このお寺の伽藍は一見の価値はあったと思う。
境内を出ようとしたとき句碑があるのを見つけた。川津匂子という人の歌碑があった。私は崩した字は読めないのでなんと書いてあるのかわからないのだが紙人形という字だけは判る。




乙女峠への道


教会の塔が見えてくる


マリア聖堂


殉教者の墓に着く


乙女峠殉教者の墓
 乙女峠


永明寺を出て次に乙女峠に行くことにした。永明寺からも乙女峠に上ることはできるのだが、北側から上って往復するつもりだ。ここからのほうが峠のマリア聖堂が近いのだ。
峠の入り口にはトイレと駐車場があるので、ここに車を置いて
乙女峠に登って行く。
緑の樹林の中に遊歩道が続いている。左手には小さな流れがあって、これに沿って5分ほど上ると、小さな教会の塔が見えてきた。ここが乙女峠であった。
乙女峠という名前に反して、ここには切支丹弾圧の壮絶な過去があるのだ。切支丹弾圧といったら、江戸時代初期の鎖国前夜のことかと思ってしまうのだが、幕末の明治維新を迎える直前のことなのだ。
開国がなってから、長崎で4000人ほどもの隠れ切支丹が名乗り出るのだが、そのうちの数人が当時フランス寺と呼ばれた大浦天主堂に入り、サンタマリア像に祈るのだ。開国がなったのだから、当然キリスト教の信仰も許されると思われたのだが、そうはならなかった。約3400人の隠れ切支丹は各地に流罪となるのである。鹿児島・萩・名古屋などの二十ヶ所が選ばれたのだが、その中の一つがこの津和野で、153名を収監することになる。
津和野は神道研究が盛んだったからなのだが、当主亀井慈監は隠れ切支丹に改宗を迫り、すさまじい拷問を行うのだ。その拷問が行われたのが乙女峠である。このために、36人が殉教することになる。切支丹が津和野に送られたのは明治元年(1868)のことで、宗教の自由が認められる明治6年まで弾圧は続いたのだ。悲惨としかいいようがない。
この峠に立つかわいらしい教会がマリア聖堂で、津和野カトリック教会の岡崎祐次郎神父が昭和26年に建てたものである。
教会には優しげな尼さんがいて、観光客に対応していた。中に入ると抽象画のようなステンドグラスがきれいであった。
教会の広場を囲むように、殉教者を悼む碑がいくつもたっていた。私はここから津和野市街に引き返すつもりでいたのだが、殉教者の墓まで散策路があるので行ってみることにした。
尾根を南に歩いてゆく。これは「十字架の道」といって、
道に沿って、キリストが十字架にかかって復活するまでの物語のレリーフがたっていた。これを見ながら山道をのんびり歩いて行った。

15分ほどで殉教者の墓に着く。谷のあちこちに散らばっていた殉教者の遺骨をここに集めて、明治25年にビヨリン神父が石碑をたてたのである。
「為義而被害者乃冥福」と刻まれた石碑の横にはキリスト像がたっていた。私はキリスト教徒ではないのだが、合掌した。
ここからマリア聖堂に引き返すのはつまらないので、永明寺に下ることにした。こんなことだったら、先にこの寺参拝するんではなかったと思った。
東に下って行くと
10分ほどで永明寺に着いた。



 津和野市街
安野光雅美術館


橋本酒店


青野山が見えた


永明寺寺から緩やかに下って行くと
JR山口線を渡って、津和野市街地に入る。町の中を北に向かって歩いてゆくと安野光雅美術館があった。私は安野の絵が大好きなので寄って行くことにした。安野光雅美はこの津和野の出身なのである。ほのぼのとした郷愁をさそう絵だけなのかと思ったら、絵本平家物語のような本格的な日本画の作品もあることを知った。
作品の展示室の他に学習棟という学校の木造教室が再現されていた。乙女峠を歩いて少し疲れたので、ここでのんびりしてしまった。
安野光雅美美術館から津和野の古い町並みを歩いてゆく。
歩いてゆくと、町並みの上には今日登った青野山が見えた。津和野郵便局を過ぎた交差点のすぐ先に葛飾北斎美術館があった。なんでこの津和野に葛飾北斎なのかよくわからない。中には入らなかった。
町には古い商家が並んでいて、歩いていて飽きることがない。華泉酒造・橋本酒造・古橋酒造といった造り酒屋の古い家並みがすごくいい。
沙羅の木というお土産屋さんのある交差点の道がすごく雰囲気がいい。白壁の通りで、津和野美術館もこの通りにある。美術館の建物は藩政時代、ロウソクの原料となる櫨(ハゼ)の収蔵倉だったのだ。藩に伝わる美術品を展示しているというのだが、中には入らなかった。
交差点に戻ると、そのすぐ先に津和野カトリック教会がある。この城下町の古い町並みに尖塔をもつ教会がたっているのは、なんとも言えない風情である。中に入ってみた。






 殿町






この先の通りが「殿町」といって、津和野の武家屋敷が並ぶ観光の中心である。
藩校養老館の白壁の塀が続く。
白壁に沿って掘割があって、その中には鯉が泳ぎ、菖蒲の緑もきれいである。津和野を代表する景観なのだ。
養老館の向かいには、大岡家老門がある。りっぱな門なのだが、この門の中には津和野町役場があるのだ。

鯉が泳ぐ掘割を眺めながら歩いてゆくと養老館の入り口があった。
養老館は亀井氏八代藩主矩賢が開設した藩校である。今の建物は安政
2年(1855)に再建されたもので、武術教場と書庫が残っている。ここで森鴎外や西周が学んだのである。中には「津和野町民俗資料館」があるのだが、中には入らなかった。民俗資料館に展示しているのは古い農具などが多くて、あまりおもしろくないのだ。


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