鷺舞の像→徳川夢声句碑→弥栄神社のケヤキ古木→弥栄神社→太鼓谷稲成神社→リフト→津和野城址(出丸→馬立場→天守台→三十間台)→西周旧宅→森鷗外旧宅→JR津和野駅

津和野の観光は乙女峠と殿町を散策したら終わったようなものなのだが、南の方もめぐってみた。鷺舞で有名な弥栄神社から鮮やかな朱塗りの本殿をもつ太鼓谷稲成へ上った。さらに、私は城址が好きなので、津和野城址に上って、それから津和野出身の偉人、西周と森鷗外の旧宅を訪れた。すべての観光を終えたら、17時半を過ぎて、夕暮れが近づいていた。



殿町を振り返る


津和野川に架かる津和野大橋


太鼓谷稲成神社入口


太鼓谷稲成神社

 弥栄神社・太鼓谷稲成神社

BACK 津和野 北部

2008年5月21日

このすぐ先で津和野川に行き当たるのだが、橋の手前に小さな公園があって、鷺舞の銅像があった。鷺舞というのは、これから向かう八栄神社の祇園祭りで奉納される踊りなのだ。鷺舞というのは八坂信仰の神社で奉納される伝統舞踏で、津和野だけではなくて京都の八坂神社にもあるのだ。京都八坂神社のほうが本家といっていい。津和野の鷺舞は国の重要無形文化財に指定されていて、一度見たいと思うのだが、踊りが奉納されるのは7月20日と27日と決まっているのだ。

橋を渡らずに、川に沿って西に向かう。
すぐに徳川夢声の句碑があった。夢声は活動弁士をしていたのだが、その朗読術はすごくて、NHKラジオでの宮本武蔵の朗読は絶賛されているのだ。夢声は島根県益田市に生まれて東京で育ったのだが、父が津和野警察署勤務になったときに、母の実家のある津和野で幼少時代をすごしたのである。
 山茶花(さざんか)の 雨となりたる 別れかな


このすぐ先にはすごい古木が道の真ん中にたっていた。弥栄神社のケヤキなのだ。太い幹には注連縄が張られていた。
朱の鳥居の奥に弥栄神社の本殿がある。鷺舞が有名なので、どんな立派な神社なのかと思っていたのだが、意外とこじんまりしている。
津和野川を左に見ながら歩いて行くと、鮮やかな朱の鳥居があって、小さな流れをわたったその先は石段になっている。伏見稲荷のように朱の鳥居がトンネルをつくっていた。鳥居のトンネルは山の急斜面にグザグに続いている。ようやく広場に着くと、ここが太鼓谷稲成神社であった。イナリ神社というのは普通、稲荷という字をかくのだが、ここはなぜか稲成なのだ。
亀井氏七代藩主矩貞が、京都の伏見稲荷を勧進してたてたものである。鮮やかな朱の本殿で、正面には出雲大社のような太い注連縄が張られていた。
ここからは眼下に津和野川が悠々と流れ、細長く続く津和野市街が一望できる。急な石段を上ったかいがあったというものである。



 津和野城址
山上のリフト駅


出丸の上、展望がいい


鞍部の城址石碑


天守台への道


稲荷大社から車道を行くと、津和野城址へのリフト乗り場がある。普通だったら歩いて登るのだが、時間がもう
16時を過ぎているので、リフトで往復することにした。
津和野城は鎌倉時代の永仁2年(1295)に吉見頼行公が30年がかりで築いたもので、その後、柿崎出羽守が16年、亀井氏が11225年間城主となったのだ。標高367mの山の上に築かれた典型的な山城である。おかげで、私はリフトで山上の城跡に向かわなければいけない。
山上のリフト駅から広い階段の道を上って行くと、すぐに中世(吉見氏時代)の堀切址があった。でも、古いのであまりはっきりしない。
ここから少し上ると石垣があって、その上が広場になっている。これは柿崎出羽守がつくった出丸の址なのだ。織部丸という。ここからの眺めは素晴らしくて、下には津和野の市街を箱庭のように観ることができ、その上には青野山が大きくそびえている。
出丸から少し下った鞍部には「中世山城津和野三本松城跡」という説明板がたっていた。鎌倉幕府は蒙古襲来の後、山陰の海岸線防備を吉見氏に命じたのである。吉見氏は津和野に地頭として入ってここに山城を築き、以後、14300年間にわたって津和野を治めたのである。でも、関ヶ原では毛利氏とともに西軍に与したため追われて、その後に入ったのが坂崎出羽守である。
ここから石を組んだ階段を上って行くと、大規模な石垣群が見えてくる。これが柿崎出羽守によって築かれた津和野城の跡である。
高い石垣の間を上って、天守台の下に着く。ここから左には「馬立跡・台所跡」があるのでいってみた。草が生い茂る広場があって、そこに標識がたっているだけであった。
天守台に上ると、樹林の中であまり展望はない。この奥に展望の開けた草原の広場があった。これが三十間台で、青野山をきれいに展望できた。
太鼓丸から二の丸を通って天守台下に戻った。
リフト駅に戻って、帰りもリフトで下った。時間はもう1640分を過ぎていて、日がだいぶ傾いてきている。




山の中腹の鳥居が見える


西周の旧宅が見えてきた


津和野川を渡る
 津和野南郊


山麓リフト駅から舗装の坂道を下って、広い車道に出る。この道を南に歩いて行くと、津和野伝統工芸舎があった。坂崎出羽守が始めたという石州和紙の紙すき体験ができるらしい。時間が遅いので外から見ただけである。振り返ると緑の山の中腹に朱の鳥居が見える。太鼓谷稲荷の鳥居であった。

今度は右に茅葺きの屋根が見えてきた。これが西周の旧居であった。
西周は幕末から明治にかけての啓蒙家であり、教育者である。将軍徳川慶喜の政治顧問を務め、明治には貴族議員にもなっている。
翻訳語として、哲学・芸術・理性・主観・科学・技術という言葉を考案したのは西周なのだ。
ここには母屋と土蔵がたっている。土蔵は周の勉強部屋だったという。
津和野川を歩道橋で渡って森鴎外の旧宅に行った。でも、時間が17時を過ぎたので入口は閉ざされていて、外から見るだけで我慢しなければいけない。鴎外は十歳で上京するまでここで過ごしたのである。庭には鴎外の詩碑もたっていた。
旧宅に隣接して森鴎外記念館があるのだが、やはり
17時を過ぎているので閉館していた。ガラス張りの新しい記念館で、庭には鴎外の胸像があった。
あとは夕暮れの中を、広い車道を歩いて津和野に戻った。津和野大橋を渡ると市街である。踏切を渡ったら、津和野駅が見えて、黄色の気動車が停車しているのが見えた。


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