高札場→口留番所跡→鯉岩→南木曽町博物館→妻籠本陣→枡形

妻籠には何度も訪れている。一番最初に来たのは木曽路を踏破しようと、日出塩から中津川まで歩いたときだった。今から30年も前のことである。さぞや観光化されて俗化してしまったのだろうと思っていたが、夕暮れ間近だったせいもあって、比較的静かに宿場のたたずまいを楽しむことができた。私の妻籠のお勧めビューポイントは枡形にある松代屋という旅籠の前である。昔、国鉄がDICOVER JAPANのキャンペーンをしたときのポスターになっていたのだ。


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2006年1017

奥三界岳から南木曽山に向かう途中には妻籠宿がある。立ち寄ることにした。
私にとって木曽路はけっこう思い出深いところで、最初に訪れたのは二十歳のころである。3月の中旬のまだ寒い頃で、塩尻のすぐ南にある日出塩から歩き始めて寝覚めの床ユースホステルに泊まり、翌日は中津川までという強行軍であった。最後に馬籠から峠を越えて妻籠に着いたのだが、タイムスリップしたような古い宿場町には感動してしまった。この頃は国鉄の「DISCOVER JAPNキャンペーンの真っ最中で、そのポスターの妻籠宿が素敵で、写真の旅籠を一生懸命探したのを覚えている。
あれから30年以上もたって、さぞや観光化され俗化してしまったんだろうと思うのだが、懐かしさに負けて訪ねることにした。

妻籠宿は中山道六十九宿のうち、江戸から数えて42番目の宿場である。江戸時代は中仙道を往来する人で賑わったのだが、明治になって鉄道や車道の整備がすすむにつれて忘れ去られ廃れていったののだ。通常ではこの古い宿場が残るはずはなかったのだが、妻籠は全国に先駆けて保存運動を起こしたのだ。最近でこそ古い町並み保存による町おこしが一般化しているが、妻籠の人たちは「売らない、貸さない、壊さない」という三原則をつくって、「重要伝統的建築物群保存」を守っているのだ。そのおかげで、私たちは昔そのままの妻籠宿を見ることができるのだ。先人の苦労には大感謝である。

私が車を停めたのは町営第2駐車場で、宿場の南側(中津川より)にある。ここから宿場に入って、まず南側に向かって歩き、それから引き返して馬籠方向に向かうつもりことにした。
南に向かうとすぐに高札場がある。昔の官報掲示板なのだが、これは復元されたものである。
少し行くと「口留番所跡」がある。戦国時代から江戸時代の初期まであった番所なのだが、その後木曽福島の番所に統合されたらしい。今はその面影はまったくなくて、説明板がたっているだけである。
番所跡のすぐ先に鯉岩がある。中仙道三名石といわれるほどの有名なものらしいが、明治24年の地震で頭部が落ちてしまったため今はどうみても鯉の形をしていない。
この先は宿場が尽きるので引き返す。
緩やかに下って行くと左手には水車がまわっていて、家の軒先には糸瓜が蔦を絡ませていたり朝顔の鉢が並べられていたり、本当に風情のあるたたずまいである。
通りから少し左に入ったところに南木曽町博物館があった。この建物は脇本陣で国の重要文化財である。明治10年の建築であるが、檜をふんだんにつかった豪勢な建物なのだ。島崎藤村の「初恋」の「ゆふさん」の嫁ぎ先でもある。
道をはさんだ真向かいには妻籠宿本陣がある。これも南木曽町博物館になっているのだが、これは平成7年に復元されたものである。島崎藤村の母の生家だという。
道は緩やかに右に曲がって下りになるのだが、そのさらに右に脇道がある。石段で下ったところが枡形の跡である。このあたりのたたずまいが一番好きである。ここに、昔DISCOVER JAPANのポスターとなった松代屋がある。宿の行灯に灯りがついていた。下山してから観光してるものだから時間はもう5時半を過ぎているからだ。
枡形から本道に戻って北に向かって歩いてゆく。枡形からが寺下の街並みで、最初の妻籠宿保存運動がおこなわれた区画である。時間が遅いおかげで、人も少なくて昔の宿場を堪能することができた。
この街並みが尽きるところには石仏群が置かれていた。
この先をさらに登って行くと峠を越えて馬籠宿に至るのだが、石仏に手を合わせて引き返した。


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高札場


口留番所跡


鯉岩


旅籠の家並みを行く


南木曽町博物館


妻籠宿本陣


枡形に下る






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