頼山陽銅像広場→地蔵堂→長生寺→古い商家群→西方寺(普明閣)→書状集箱→竹原市歴史民俗資料館→竹原市町並み保存センター→頼惟清旧宅→照蓮寺→酒造交流館→復古館→春風館

竹原は全国的にあまり知られていない観光地だと思うのだが、ここに残されている古い町並みは本当にすばらしいのだ。私が登山旅行で立ち寄る観光地はこうした古い町並みが多くて、そのほとんどは「町並み保存地区」となっているのだ。今回ここの「町並み保存センター」に立ち寄って、その活動内容を知った。これからの旅の参考にすごくなった。


 頼山陽像
頼山陽の銅像


川中島の戦の歌碑


古い町並み

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2008年5月30日

龍頭山で今回の登山は終了である。名古屋からフェリーに乗るつもりだが、帰りすがらは山陽の観光をしていくことにした。
まず白壁の街並みが美しいという竹原の町に立ち寄った。この竹原は塩田で栄えた町なのだ。

それから尾道を時間をかけて散策するつもりである。
町の真ん中を本川が流れているのだが、この近くに空き地を見つけて車を停めた。本川の左岸は国道185号線で、新港橋で西に曲がるのだが、そこには頼山陽の銅像があった。銅像の横には川中島の歌碑(鞭声粛々 夜河を渡る…という有名な漢詩で、私は学生のとき詩吟部に席をおいていたので何度も吟じてきたのだ。でも川中島として知られるこの漢詩は、正式には「題不識庵撃機山図」ということを知ってるだろうか)がたっている。どうして、ここに頼山陽の銅像があるのかと不思議に思ってしまう。頼山陽は大阪に生まれて、父は広島藩の儒学者として登用されて、広島に住んだことはあるが竹原は関係ないだろうと思う。(あとでわかるのだが、竹原には頼山陽の祖父が紺屋を営んでいたのだ。でも、直接には関係ないと思うのだ。)
それにしても、頼山陽の思想が幕末の勤王の志士たちに与えた影響はすさまじいもので、山陽が著した「日本外史」は当時のベストセラーなのだ。日本外史は武家の興亡を述べた概史なのだが、このなかで天皇家の権威を絶対的なものとする大義名分論を唱え、さらに興亡史の中で政権の変動を可としているのである。これが倒幕に至る思想的後押しをすることになる。

ここから右の細い路地に入る。とたんに雰囲気は変わって、すばらしい家並みが続いていた。この町並みは「町並み保存地区」として保護されているのだ。




白壁の町並みを行く


長生寺墓地からの眺め

 長生寺界隈


古い蔵作りの街並みが左に続いているのだが、これはあとでじっくり散策することにして、まず長生寺に向かう。
この途中に地蔵堂があった。

竹原の町の繁栄は入浜式の塩田を開発したことによるのだが、時の代官鈴木重仍はこのお地蔵さまの夢のお告げで製塩方法を得たというのだ。お堂の中をのぞいたら、すごく素朴なつくりのお顔であった。
ここから少し行くと、山の斜面に立派な山門が見える。これが長生寺である。豊臣秀吉の四国征伐によって伊予を追われた河野通直はこの竹原に身を寄せたのだが、24歳の若さで亡くなってしまうのだ。それを弔うために、小早川隆景が建てたのが長生寺である。小早川隆景は毛利元就の三男で、秀吉の信任を得ていた大名なのだ。(小早川といったら、関が原で西軍を裏切って家康に勝利させた小早川秀秋を思い出してしまうのだが、秀秋は隆景の養子である。)本堂のたつ境内から急な石段を上って、河野道直の墓にお参りした。古い石塔がたっていた。




松坂邸


妙見邸
 町並み保存地区

引き返して、古い町並みを歩いてゆく。これが町並み保存地区の家並みなのである
私はこの町並み保存地区にすごく興味がある。私が日本全国の山を登りながら興味をもって立ち寄るのは、町並み保存地区にそのまま重なってしまうからだ。
町並み保存区域を定めているのは「全国伝統的建造物群保存地区協議会」である。略して伝建協というらしい。最初の指定は昭和519月で、秋田の角館、木曽の妻籠宿、世界遺産になっている白川郷、京都清水の産寧坂、京都祇園の茶屋町、萩の武家屋敷通(2箇所)りの7箇所である。この竹原が指定されたのは昭和5712月である。現在、指定されているのは84の区域(http://www.denken.gr.jp/)で、これを見るて、私はかなりの街を訪れていることに気がついた。私の青森のふるさとの町も指定されている。これはやはり「町並み保存地区」のページを立ち上げるしかないかもしれない。この町並みのすばらしさについては私の拙い文章では伝えることができないので、写真を見ていただきたい。


 西方寺
西方寺の山門


西方寺境内


町並み保存地区のメインストリートか離れて、右の細い路地を行くと、正面に長い石段があって、その上に伽藍が見える。これが西方寺である。この寺は舞台造りの普明閣が有名なのだ。

長い石段を上って本堂の前に着く。普明閣はこの右にあるのだ。京都の清水寺を模して、小早川隆景が明和2年(1765)に建てられたというのだが、舞台は赤く塗られていて、幅は狭い。清水の舞台の重厚さはまったくないのだが、なにかしら品のいい造りなのだ。舞台に上ってみると、竹原の町を一望することができた。



 町並み保存地区





西方寺から町並みに戻って、さらに散策を続ける。

昔の書状箱などを見て、歩いて行くと薄い水色の洋館がたっていた。
この手前に、町並み保存センターがあった。家や町並みの模型があって、さらに土蔵造りの家の構造などのパネルがすごく勉強になった。そして、ここでもらった「全国伝統的建造物群保存地区協議会」の冊子で、全国の町並み保存地区のことを知ることができた。まだ行っていないところに絶対行こう思った。
歴史民族資料館である。昭和
4年に、竹原の図書館として建てられた木造洋風建築である。入館料は100円という不思議な価格である。中には塩田などの資料が展示されているので入ってみた。




頼惟清の旧宅


照蓮寺の鐘楼門


復古館


頼山陽の銅像の広場が見えてきた

 照蓮寺界隈


この先に頼惟清の旧宅があった。頼山陽の祖父の旧宅である。安永
4年(1775)の建築で、紺屋を営んでいたという商家である。頼山陽は時々、ここに立ち寄ったらしい。裏庭には頼山陽の詩碑がたっていた。
この先に照蓮寺があるので寄った。石段を上って、境内には右横から入った。領主であった小早川氏の子弟が学んだ定林寺を慶長8年(1603)に真宗の照蓮寺として再興したのだという。立派な本堂で、この右の庫裏にはガラスケースに入った鐘が展示されていた。これが重要文化財の高麗鐘であった。私は鐘楼門にかかっているものと思っていたのだが、間近で見ることができてラッキー。
ここには庭園があるので、庭をめぐってみた。小祇園と呼ばれる池泉庭園である。ツツジが咲いていてきれいだった。
帰りは本堂の正面に続く参道を下った。立派な鐘楼門がある。石段を下って、少し先で左折して南に歩いて行く。

この通りは歩いてきた町並みの一本西の通りなのだ。
すぐに白い大きな蔵が見えてきた。幟がはためいていて、これが酒造交流館であった。この蔵は江戸末期に建てられた藤井酒造の酒蔵なのである。
このすぐ先には白壁の土蔵が美しい邸宅がある。光本邸であった。その隣が復古館である。通りから左に入る細い路地があって、板塀が長く続いていて、その奥には長屋門のような入口が二つ並んでいた。手前が復古館で奥が春風館である。春風館は頼山陽の叔父・頼春風の家で、復古館は春風の孫の邸宅である。製塩と酒造業を営む豪商だったらしい。
そこから大瀬邸などの古い町並みを歩いて本川の川端に出た。
あとは車まではすぐである。
車に戻ったのは13時40分、まだ時間があるので、これから尾道を観光することにした。



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