岡城址→滝廉太郎像→本丸跡→広瀬神社→切支丹洞窟→殿町武家屋敷→廉太郎トンネル→滝廉太郎旧宅→愛染堂→十六羅漢

夏木山への林道でブレーキがきかなくなって、車は崖に激突して大破、九州登山旅行は中止するしかなくなった。代車で帰る途中に竹田に立ち寄った。
竹田といったら荒城の月の滝廉太郎で、滝はこの竹田の岡城址で荒城の月の曲の構想を練ったという。岡城址には石垣しか残っていないのだが、すばらしく規模の大きな城であった。そして街には武家屋敷通りも残っていて、けっこう楽しいのだ。


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2006年56

五葉岳の登山口に向かう途中で、突然ブレーキがきかなくなって崖に激突してしまった。車は横転して車軸は折れてしまって、どうしようもなくなってしまった。左側は20mほどの崖で、もし落ちたら間違いなく死んでいただろう。
人家のあるところまでは5kmほど歩かなければいけない。運良くやってきた車に乗っけてもらって、人家まで送ってもらってそこから電話してレッカー車を呼んだ。おかげで、登山旅行は中止。三菱自動車に代車をだしてもらって帰宅することにした。


57

事故対応で延岡に一泊し、今夜、北九州からフェリーに乗ることにして車を走らせる。途中で竹田の道路標識を見たので、立ち寄ることにした。

竹田といったら、赤い鳥がうたっていた竹田の子守唄を思い浮かべてしまうのだ。
守も嫌がる 盆から先にゃ 
雪もちらつくし、子も泣くし

盆来たとて 何うれしかろ
かたびらはなし 帯はなし


まず、岡城跡へ行く。この城は文治2年(1185年)に緒方三郎惟栄が源義経を迎え撃つために築いたというのだが、もっと有名なのは、滝廉太郎がここで「荒城の月」を作曲したということである。
春高楼の花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝 わけいでし
むかしの光り いまいづこ
城の入口には広い駐車場があって、300円の入場料を払って城の中に入ってゆく。ただ、この入場料は協力金の名目になっている。入場券と一緒に小さな掛け軸のような城の案内パンフレットをくれた。

参道のような道を行く。左には絶壁がそびえていたりして、すごい城なのだ。史跡岡城址の碑を過ぎると、すごく急な石段を登る。登りついたところが大手門址である。今の岡城には石垣が残るだけなのだが、その石垣がすごい。大手門を過ぎると平坦な道になる。分岐があって、左に行くと西の丸で、まっすぐ行くと本丸である。まず本丸に向かった。

太鼓楼の址を過ぎると三の丸跡に着く。ここの広場は展望台のようになっていて、周りの山々を眺めることができる。久住山・大船山なんどの九重連山を展望できるらしいのだが、遠くの山はかすんで見えなかった。
空井戸をみて、さらに進むと二の丸跡である。ここに滝廉太郎の銅像がたっている。
少し引き返して石段を上がって本丸跡に着く。ここには荒城の月の作詞者である土井晩翠直筆を写した石碑がある。碑の前には説明板があって、それによると二番の出だしは「秋陣営の霜の色」が一般的なのだが、自筆のこれでは「夜半の霜」になっているのだそうだ。作家というのはけっこう気まぐれなのだ。
大手門まで引き返して、西の丸に向かう。つくづく、石垣が豪壮ですごい城だと思う。
家老屋敷跡、普請方跡を巡って、最後は長い石段を下って最初の受付の前に戻った。
岡城は石垣しか残っていないのだが、同じ石垣だけの人吉城に比較しても、すごく大きな城のような気がした。

車を走らせて広瀬神社の前に車を停めた。ここからは歩いて竹田の街を散策するつもりだ。
まず広瀬神社に参拝した。長い石段を登って境内に着く。
広瀬神社は、日露戦争の英雄である広瀬武夫中佐を祀っているのだ。広瀬中佐は旅順港閉塞作戦で沈み行く船で行方不明になった杉野兵曹長を探しているときに被弾して亡くなったのだ。境内には広瀬武夫記念館がある。
境内から急な階段を下るときは、竹田の街並みが一望できた。
本通りから左に入って、北の山に向かって緩やかに登って行く。入口には「歴史の道」の石柱がたっていた。
向かったのは切支丹洞窟である。住宅地を抜けて、鬱蒼とした森の中の道を登るとこの洞窟がある。江戸幕府は切支丹の弾圧を行うのだが、そのとき外国人宣教師をかくまうために掘られたのがこの洞窟だという。内部は礼拝堂になっていたのだそうだが、今は入ることはできない。
住宅地に戻って西に向かって歩いて行くと殿町武家屋敷である。中級の武士の屋敷があったところで、今も土塀や長屋門が残っているのだ。特に吉田家仲間長屋門はりっぱであった。
石垣に沿った道を行くと旧竹田荘がある。「聖画」と呼ばれた江戸時代の南画家、田能村竹田の旧宅だというのだが、この画家についてはまったく知らない。ただ、頼山陽が泊まったことがるという。
竹田市立歴史資料館に着いたが、時間は5時少し前で、もう入場することはできなかった。
滝廉太郎の旧居に向かって細い道を行くと廉太郎トンネルがある。このトンネルに入るとセンサーが感知して、廉太郎の曲が自動的に流れる。面白いので何度も出入りして、用意されている4曲をすべて聴いてしまった。
滝廉太郎の旧居は12歳から14歳までの少年時代をすごした家なのだ。武家屋敷風の家である。もちろん時間が遅いので中に入ることはできない。
北に向かって歩いて行くとりっぱな山門があった。豊音寺の山門で、ここには十六羅漢があるということなのだが、探したがみつからなかった。あきらめて長い石段を登って愛染堂に向かった。愛染堂は寛永12年に建立された竹田市最古の建造物で、重要文化財の優美な形の御堂である。
この愛染堂から真っ直ぐに続く石段を下って行くと、左に十六羅漢があった。私はガイドブックの地図を見間違えていたのであった。
メインストリートに戻って、まっすぐに歩いて行く。行く手には広瀬神社の長い石段も見えた。通りに「山頭火 秋山巖版画館」の看板があった。もう遅いので中に入ることはできないのだが、その看板の絵がひどくすてきに見えた。
車の前に戻ったのは6時であった。

翌日、北九州からフェリーに乗って、東京に着いたのは5月10日未明。東北自動車道を走って仙台に戻ったのは昼頃であった。こうして約1ヶ月の九州登山旅行は終わった。でも、九州百名山を6つ、残してしまったのが残念だ。もう一度九州に行かなければいけない。


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無残な私の車


岡城入り口




太鼓楼跡


三の丸


本丸


広瀬神社




殿町武家屋敷




愛染堂への坂道


突き当りが広瀬神社







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