北陸の旅 



飛騨高山は北アルプスの西にあって、四方を山に囲まれ、古い町並みが残る小京都である。私は登山の傍ら、何度かこの町を訪れている。
江戸時代の面影を残す三町筋は観光客であふれているのだが、それでも散策するその度に美を見出すことができる。


JR高山駅→広小路通り→筏橋→中橋→高山陣屋→高山市政記念館→上三之町→上二之町→鍛冶橋→飛騨国分寺




 高山駅から筏橋へ
高山駅


歩道の指導標パネル



二階建てバスが走っていた

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2008925

高山に着いたのは
13時半ころであった。これから、3時間ほどで、高山を観光をするのだ。
JR高山駅には赤いボンネットバスもあった。そして、記念写真用の「さるぼっち」もある。なんか楽しくなってしまうのだ。
駅から広小路通りを東に向かう。足元を見ると、歩道にタイルの指導標がある。絵がすてきである。
駅前広場から商店街のアーケードに入るところに「飛騨山娘」の像がたっていた。その姿が岸田劉生の麗子像に似ている。
「妾(わた)しや奥飛騨 山娘 都はなれた 山里の 深い谷間に咲いた花 人に知られぬ 山つつじ」という詩が刻まれている。その顔が の絵によく似ている。
広小路通りにも、けっこうレトロな建物があって、写真を何枚も撮ってしまうのだ。筏橋手前の交差点にたっている天狗本店という精肉店は大正時代のような建物であった。
宮川にかかる筏橋を渡ってから、川に沿って南に歩いて行く。すぐに筏橋の石碑がたっていた。
川端の落ち着いた道を歩いて行くと、鮮やかな朱に塗られた欄干をもつ中橋が見えてきた。この中橋を西に渡り返すと、そこに高山陣屋がある。



 高山陣屋から高山市政記念館へ
高山陣屋


市政記念館の途中の料亭洲さき


中橋を西に渡り返すと、そこに高山陣屋がある。
元禄5年(1692)まで高山には城主がいたのだが、以後、幕府は飛騨を直轄領にして、代官がここで政務とったのである。明治以後も地方官庁としてこの建物群は使用され続けたのだ。
建物は文化13年(1816)が立てられ、御門や大広間・吟味所は当時のまま残されている。
陣屋の前に広場では朝市が行われるのだ。

広場の片隅に木刀を持った若い武士の銅像がたっている。碑文を読んだら、これは山岡鉄舟であった。なんでここに山岡鉄舟なんだと思ったら、鉄舟は父が飛騨郡代となったため、この地に8年ほど住んでいたのだ。
もう一度中橋を渡った交差点には「のがわ」といううどん屋さんがあるのだが、この建物がいい。
左に観光客で賑わう上三之町筋を見送って直進すると「高山市政記念館」がある。
門には高山町役場と書いてあるので、本当にここが役場なのかと思ってしまった。この建物は明治28年(1968)に建てられ、昭和43年(1986)まで実際に使われていたのだ。





 上三之町


市政記念館から引き返して、まず上三之町筋を行く。この町並みは高山でもっとも美しいのだ。でもその分、観光客はめちゃくちゃに多い。
これは文章よりは写真をみてくれたほうがいいだろう。



 上二之町から鍛冶橋
上二之町の通り


みたらし団子の二
四三屋

いったん安川通りに出て、それから上二之町の通りを南に向かう。この通りは観光客が少なくて、落ち着いて歩くことができる。この通りで屋台小屋を見つけた。高山祭りで使われる山車を納めているのだ。私はまだ高山祭りを見たことがないので、一度祭りの時に訪れてみたいと思っている。

安川通りに戻って、西に向かう。まず鍛冶橋を渡るのだが、この橋の中ほどには奇怪な銅像がある。橋の両側に足長と手長の銅像があるのだ。
橋を渡ったところには、みたらし団子の二四三屋の屋台のような店がる。この店はけっこう人気があって、いつも観光客が並んでいるのだ。




 飛騨国分寺
国分寺山門


境内の大いちょう

橋を渡ると、通りの名前は国分寺通りに変わる。私は最後に飛騨国分寺に寄るのだ。
国分寺というのは聖武天皇が日本全国にたてた寺で、この名前の寺は今も全国に残っているのだ。飛騨国分寺は天平18年(746)に建立されたのだが、その後、幾たびも兵火にあって、今残るのは高さ40mの大いちょうと礎石だけである。
本堂室町時代に再建されたものだが、天平時代の礎石の上に建っている。
本堂に至る参道にある鐘楼門は高山城の門を移したものだという。
境内には美しい三重塔がたっている。でも、これは文政4年(1821)に再建されたものである。
これで高山の観光を終えた。3時間で観光するのはこれが限度である。


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