頼久寺(庭園)→武家屋敷通り(埴原家)→本町通り→紺屋川筋→有終館跡→カトリック教会→高梁市郷土資料館→正善寺

山の間に流れる高梁川に沿って開けた小さな街が高梁である。それでも、この町は飯倉氏5万石の城下町で、武家屋敷町、寺町、商人町の姿がよく残っていて、すばらしく美しい街なのだ。そして、作庭の名人といわれる小堀遠州が手がけた蓬莱式枯山水庭園もあるのだ。ゆっくり時間をかけて散策したい町である。


 頼久寺
頼久寺山門


本堂


境内


庭園

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2008年5月31日

まだ
13時前なので、次は高梁を観光するつもりだ。高梁は山が間近に迫る高梁川に沿って開けた小さな町で、板倉氏5万石の城下町なのだ。今も武家屋敷や商人町が昔の姿をとどめていて、「町並み保存地区」となっているのだ。
私は高梁をタカハリと読むと思っていたのだが、ここを訪れて初めてタカハシと読むことを知った。
頼久寺の前に駐車場があったので、ここに車を停めて散策を始めた。車を停めさせてもらったので、まず最初に頼久寺を拝観することにする。
頼久寺は草創がはっきりしないのだが、暦応2年(1339)に足利尊氏が再興して、備中の安国寺としたという。この寺には小堀遠州の庭園があることで有名なのだ。小堀遠州は大名でありながら、茶道・建築・造園の巨匠として有名で、私は日本のあちこちの名所旧跡をめぐっているのだが、小堀遠州作の庭園をよくみるのだ。
遠州は関ヶ原の功で備中松山城(このあと訪ねる)を賜り、備中の代官として高梁に赴いたのだ。この時、城は荒廃していたので、頼久寺に仮の館を築いたのである。今残る庭園はそのとき造られたのである。形式としては「蓬莱式枯山水庭園」というらしいが、私はその形式のことはよくわからない。
駐車場から広い石段を上る。さすがに、城の代わりとしただけあって、しっかりした高い石垣の上に堂塔がある。
本堂や鐘楼はたいしたことがないので、すぐに庭園を観にいった。
さすがにすばらしい庭園である。枯山水といったら、石と砂だけと思っていたのだが、砂庭の奥はサツキなどの緑がふんだんである。庭の遠景には愛宕山がそびえている。ピンクや赤のサツキが咲いているのだが、マダラなのがちょっと気になる。でも、この植え込みは大海波を表しているのだという。庭の真ん中には鶴島という石組みがあって、その奥が亀島である。

本堂にすわってこの庭園をゆっくり鑑賞した。いい庭だと思う。




武家屋敷通り


本町通り
 武家屋敷と本町通り


頼久寺から北に向かって歩いて行くのだが、これが石火矢町筋で、狭い道の両側に白い壁の土塀が続いている。

鍵型に曲がってさらに北に向かって歩く。石垣と白壁の塀が続くなかに「武家屋敷(旧埴原家)」があった。でも、外から見るだけにした。
このすぐ先の字路で左折する。すぐにJRの踏切を渡るのだが、ちょうど「特急やくも」がやってきた。岡山と山陰を結ぶ特急である。
小高下谷川に沿って少し東に向い、それから左折して本町通りに入る。本町通りは商家が続く道なのだ。
この商家の町並みについては文章であれこれ説明するより写真をみてもらったほうがいい。私はこういう家並みが大好きで、たくさん写真を撮ってしまった。




紺屋川


高梁郷土資料館


正善寺
 紺屋川界隈


紺屋川にぶつかると石橋がかかっている。老松橋というのだ。ここには小さな社もあった。
紺屋川に沿って東に歩いて行くと、右岸に「有終館跡」という石柱がたっていた。藩の学校なのだが、この石柱の後ろは、今は高梁幼稚園であった。

すぐそばには板壁の教会が見える。明治22年(1889)にできたという高梁基督教会堂であった。
ここから南に下ると、木造の古い洋風建築が見えてきた。明治37年(1904)に建てられた旧高梁尋常高等小学校で、今は高梁郷土資料館になっているのだ。入り口の横には二宮尊徳の銅像があった。懐かしい。昔の学校には必ずといっていいほど、薪を背負いながら書を読む二宮尊徳像があったのだ。今、こんなことをしたら、交通事故になってしまうけど。
あとは頼久寺に引き返すだが、その途中に正善寺があった。
江戸時代、備中松山城主であった板倉氏の菩提寺である。境内に入ってみたが、別に観るべきものはなかった。

これで高梁市街の観光を終えて、備中松山城を観に行く。これは車で山に向かって上って行かなければいけない。


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