薩長土連合密議之処→明治維新胎動之地→花月楼→吉田松陰歌碑→杉家旧宅→松下村塾→松陰神社→吉田稔麿生誕地→伊藤博文旧宅・別邸→玉木文之進旧宅→吉田松陰誕生地公園→吉田松陰の墓→東光寺

萩市街地から東に向かって、松本川を渡ると松陰神社がある。この神社の境内には松陰ゆかりの杉家旧宅とか松下村塾が残されているのだ。
神社からさらに東に歩いて行くと、伊藤博文の旧宅や松陰の師であった玉木文之進の旧宅、そして松陰の誕生地公園がある。これに隣接して松陰の墓所もあった。



松陰神社の入口


薩長土連合密議之処の碑


明治維新胎動之地の石碑


花月楼


井上剣花坊の碑
 松陰神社

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2008年5月20日

車に戻って、松陰神社に向かった。無理したら歩ける距離だが、面倒になってしまったのだ。

松陰神社は明治23年に吉田松陰を祀って創建された神社である。
松陰について知るには司馬遼太郎の小説「世に棲む日日」をお薦めしたい。
幕末における長州は尊皇攘夷の行動を過激化させて、「天誅」と称して暗殺を繰り返し、ほとんどテロ集団になってしまうのだが、その思想の基礎をつくったのが吉田松陰である。吉田松陰は杉家の次男として生まれたのだが、幼くして山鹿流兵学師範の吉田家に養子となるのである。でも吉田家当主はすぐに亡くなってしまって松陰は若くして吉田家の家督を継ぐことになるのだが、吉田のままで杉家の同居していたらしい。松陰はアヘン戦争のことを知って、西洋兵学を学ぶために長崎に行き、そして江戸に遊学する。松陰のすごさというのは、そのすさまじいまでの知識欲である。脱藩同様で東北へ旅をし、罪を得てからもペリーの黒船に密航を試みたりするのだ。
神社の前の広場にはたくさんの石碑があるのだが、まず見つけたのが「薩長土連合密議之処」の碑である。土佐の坂本竜馬が久坂玄瑞を訪ねてきて、ここにあった旅館で会ったのだが、たまたま薩摩の藩士もきていて会談することになったという、それだけのことである。後の薩長同盟とはまったく関係ない話で、そんな石碑をたてるほどのものではにのだ。久坂玄瑞というのは長州のきっての過激派である。
また、「明治維新胎動之地」と刻まれた大きな石碑もあった。松陰が明治維新のための思想の魁けとなったという意味で他に意味はない。
さらに参道には吉田松陰の歌碑があった。
 親思う 心にまさる 親こころ
 今日の音づれ 何と聞くらん

松陰は安政の大獄で江戸伝馬町の牢に囚われたのだが、その牢の中から郷里の両親に送った手紙に書いた歌なのだ。この石碑の文字は松陰の真筆を写したものである。
七代藩主が建てたという「花月楼」という茶室を見てから、松下村塾に向かった。
松下村塾というのは、松陰の叔父である玉木文之進が開いた私塾なのだが、28歳の松陰がこれを引き継いで、安政4年(1857)から江戸で処刑されるまでの2年半、この塾で門弟の教育にあたったのである。そのときの門弟は久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋など、幕末に活躍したそうそうたるメンバーなのだ。
「偉大なる存在なりし松下塾」と刻まれた石碑もあった。
このすぐ奥には「吉田松陰幽囚旧宅」がある。吉田松陰は伊豆下田港で海外密航を企てて失敗、江戸から送られて、さっき見てきた野山獄につながれたのだが、その後は松陰の実家の杉家に幽閉されたのである。幽閉されながらも、松陰に教えを請う人は多く、ここで講義を1年半ほど行って、それから松下村塾に移るのである。
参道を行き、大きな石の鳥居をくぐって、松陰神社の本堂にお参りした。



 松陰生誕地へ
吉田稔麿誕生地の碑


伊藤博文の旧居


玉木文之進の旧宅


吉田松陰・高杉晋作の墓所の碑


参道を引き返して神社の境内をでる。ここからは東にある東光寺まで行ってみようと思う。途中には松陰にかかわる史跡が点在するのだ。

神社の右に道が続いている。すぐに吉田稔麿の誕生地という石柱があった。吉田稔麿は高杉晋作らとともに松陰門下の四天王と呼ばれたのだが、京都三条の池田屋で新撰組に襲われて亡くなったのだ。
このすぐ先に伊藤博文の別邸・旧宅がある。伊藤博文は、日本初代総理大臣で千円札にもなったのだが、維新前は長州の本当の下級武士にすぎなかったのだ。だから旧宅は茅葺のすごく粗末な家である。このすぐ隣には、東京に建てた別邸が移築されている。これはさすがに豪華なものである。伊藤博文の銅像もたっていた。すごいのは、銅像が彩色されていることである。
ここから少し行くと玉木文之進の旧宅があった。「松下村塾叢祥之処」という石柱がたっていた。質素な茅葺の家である。
ここはT字路になっていて、右の道を緩やかに上って行く。すぐにきれいに整備された公園についた。まず目に付いたのが二人の武士の銅像である。吉田松陰・金子重輔の銅像であった。この銅像へ続く道の入り口には「高杉晋作草庵跡地顕彰碑」があった。
公園内には敷地跡が残されている。これは吉田松陰の実家、杉家の旧宅跡なのだ。杉家はその後移転しているのだが、ここで松陰は生まれたのである。松陰産湯の井戸も残っていた。
ここから少し行くと吉田松陰の墓がある。松陰の他にも高杉晋作、玉木文之進、吉田稔麿などの墓もあった。本当の墓なのかと疑ってしまった。偉人の墓というのは不思議なことにあちこちにあったりして、ただ単に後で顕彰碑のようにして墓石をたてたというのも少なくないのだ。
ここから広い道を行くと、大きなお寺の門が見えてくる。毛利家の菩提寺なのだが、ここに祀られているのは奇数代の藩主なのだという。
赤い総門があって、長い参道の向こうには三門が見えた。この寺は黄檗宗、宇治万福寺の形式の伽藍なのだが、中に入るのが面倒になって、車に引き返した。1530分を過ぎていた。


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