白糠町が近づくと、白糠港があった。このあたりが石炭岬で、安政(1854〜60)の頃には石炭採掘が行われていたのだ。岬の山の斜面に「北海道石炭採掘創始の碑」があるというので、白糠港に」車を停めて、必死で探してしまった。
白糠市街から「岬の森東山公園」に向かった。石炭岬の丘の上に公園がつくられているのだ。急な坂道が続き、しかも道は狭い。けっこう緊張して運転しなければいけなかった。車道終点は展望の広場があって、正面には「望洋の碑」が高くそびえ立っていた。
望洋の碑の左、一段上がったところに石碑が立っている。白糠出身の歌人、小助川濱雄の歌碑であった。
この広場からは太平洋を展望できる。下には白糠港があって、海岸線がずうっと続いている。白糠市街地も見えた。すばらしい眺めだ。
山から下って、白糠の公民館に行った。ここには「白糠運上屋跡碑」があるので見にいったのだ。江戸時代、蝦夷地を統括したのは松前藩なのだが、幕藩体制の基礎である米の生産ができないため、アイヌとの交易による収入をあてたのだ。交易の場所は藩士ごとに割り当てられ、取引は商人にまかせて、そこから上がる収益を「運上金」として納めさせたのだ。この商人には悪徳が多くて、アイヌから徹底的に搾取したのだ。アイヌの歴史は悲惨としかいいようがない。その跡を見ておきたかったのだ。
ここから少し行くと「厳島神社」がある。コンクリートづくりでほとんどありがたみを感じないのだが、この前に「原半左衛門縁の地碑」がある。この人は八王子千人同心の組頭であったが、幕府から蝦夷地移住の許可を得て、寛政12年(1800)にこの白糠に入植したのだ。でも、寒冷に勝てず、3年半で挫折、撤退することになる。北海道では、そんな開拓の挫折が繰り返されたのだ。
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