道の駅大宇陀→阿騎野人麻呂公園→かぎひろの丘万葉公園→阿紀神社→徳源寺(織田家4代墓)→光明寺→松山西口関門(黒門)

大宇陀は万葉の里というイメージが強いのだが、松山藩3万石の城下町でもあったのだ。散策はまず万葉公園から天照大神を祀る阿紀神社を参拝し、それから松山藩初代藩主だった織田信雄の墓がある徳源寺とめぐった。


 阿騎野人麻呂公園 万葉公園
道の駅大宇陀


阿騎野・人麻呂公園


万葉公園入り口


かぎひろの丘

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20081124

せっかく奈良にいるので、観光をしようと思う。二十歳の頃は大阪に住んでいたので、そのとき奈良の史跡はほとんどめぐっているのだが、今回は昔を懐かしみながら散策しようと思う。
初日は大宇陀を歩く。かっては松山藩三万石の城下町だったのだが、私にとっては万葉の里という思いが強い。
車を「道の駅大宇陀」に停めて散策をスタートした。
まず、阿騎野・人麻呂公園にやってきた。ここは古代において薬狩が行なわれた阿騎野で、中之庄遺跡も発掘されている。薬狩っていったい何だと思ったら、薬草狩のことなのだ。なんだ狩猟ではないのかと思ったら、古代では鹿の若角をとる猟のことだったのだ。鹿の若角は鹿茸と呼ばれて、乾燥させて強壮剤がつくられたのだそうだ。
公園に入って行くと柿本人麻呂の騎馬像があった。台座には人麻呂の歌が刻まれている。

 東の野に 炎の立つ見えて
  かへり見すれば 月傾きぬ


この歌は、持統6(692)軽皇子に同行して阿騎野へ狩にきたときに詠まれたものなのだ。軽皇子って誰なんだと思ってしまうのだが、この名のつく皇子は複数いて、この場合は文武天皇のことなのだ。大宝律令が発布されてたときの天皇が文武天皇で、すごく実績のある天皇なのだが、25歳の若さで崩御している。文武天皇の子が奈良の大仏を建立した聖武天皇である。この歌が詠まれた持統6年、軽皇子は9歳にすぎなくて、柿本人麻呂は子供のお守りもしていたのかと思ってしまうのだ。
銅像の奥には中之庄遺跡を復元した掘立柱建物と竪穴式住居があった。

この公園のすぐ隣には「かぎひろの丘万葉公園」がある。石段を上って台地の上に出ると芝生の広場であった。茅葺きの東屋があって、その少し先に歌碑がたっている。これはさっき人麻呂公園でみた「東の野に 炎の立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ」という歌であった。




田園風景の中を行く


阿紀神社


近畿自然法の指導標が立っている


光明寺本堂
 阿紀神社 徳源寺


万葉公園から引き返して、田んぼの間に続く細い道を行くと阿紀神社に着く。伝説では神武天皇が熊野からこの大宇陀まで進軍してきたとき、この地で御祖の神、天照大神を祀ったのだという。

日本書紀では、もともと天照大神は大和三輪山の麓の桧原神社に祀られていたのだが、第11代崇神天皇の命によって、別の場所に移すことになったのだ。その命をうけたのが倭姫で、倭姫が鎮座させたのがこの地だったのである。でも、その後、倭姫はさらに鎮座にふさわしい地を求めて旅をし、最終的には伊勢まで行き天照大神を祀ったのだ。現在の伊勢神宮である。
さすがに由緒ある神社だけあって、境内は広くて立派なたたずまいである。本殿は伊勢神宮と同じ神明造りで、伊勢神宮と同じく南向きにたてられているのだ。
境内にはりっぱな能舞台があった。6月にはここで薪能が開催されるのである。

阿紀神社からは徳源寺をめざす。本郷川に沿って北上して行き、振り返ると田んぼの向こうにかぎひろの丘が見えた。紅葉に囲まれた広い台地であった。

道には「近畿自然歩道」の指導標が立っていて、これに従って歩いて行く。
東屋の前に着くと、その先には急な石段があった。これが徳源寺への参道で、長い石段を登り切ると境内である。境内は紅葉真っ盛りであった。
このお寺の本堂はまったく寺院らしくなくて、普通の民家のようだった。紅葉を眺めながら境内を散策すると、あちこちに苔むした石仏が置かれている。これがすごくいい。

徳源寺は松山藩初代藩主織田信雄の菩提を弔うために、2代藩主高長が建立した寺なのだ。(織田信雄というのは、あの織田信長の次男である。)そんなわけで、この寺には織田信雄から織田家4代の墓があるのだ。
これを参拝することにする。樹林の中、広い石段を上って行く。上りきったところに墓所があって、五輪塔が
4基並んでいた。これが信雄・高長・長頼・信武の墓である。古木が茂り、しんと静まりかえった墓所であった。



 光明寺 商家の町並み
光明寺の鐘楼門


光明寺本堂


参道を引き返して、東に歩いて行くと光明寺に着く。
檜皮葺の鐘楼門をくぐって境内に入る。正面にたつ本堂はりっぱなもので、境内には鮮やかに色づいた楓の古木があった。大きな十三重の石塔もたっていた。

光明寺から出ると、古い民家の間を南に向かう。道端に石の常夜燈がたっていて小さな社があった。ここで宇陀川を東に渡ると黒門がある。慶長5(1600)3万石を付与された福島正頼(福島正則の弟)は秋山城を松山城と改めて、城下町を整備したのである。そのときに城下町の西の入り口門として建てられたのがこの黒門なのである。この門は城下町時代の唯一の遺構で、史跡となっているのだ。
すぐに国道370号線に出て、あとはこの道を南に向かって歩いて行くと道の駅に戻れるのだ。でも、この国道沿いには古い民家が建ち並んでいて、すばらしい町並みなのだ。


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