福善寺→大山寺→御袖天満宮→西国寺(仁王門→本堂三重塔)→尾道東高校(林芙美子文学碑)→西郷寺→西郷四郎逝去の地→浄土寺(本堂→阿弥陀堂→多宝塔)→海竜寺(文楽の墓)

尾道のすべてを歩くつもりなのだが、わずか3時間で巡ろうというのはかなり無理だった。まわり終えたら18時半になって写真も撮れないほど薄暗くなってしまった。でも、西部にも見るべき所は多くて、特に山の上に伽藍が並ぶ西国寺や国宝の堂塔が並ぶ浄土寺はすばらしかった。かなり早足でまわったので疲れてしまったが、十分満足するものだった。


 福善寺・大山寺
福善寺


墓地の石段を上った


大山寺の庭

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2008年5月30日

ここから真っ直ぐ東に行くと福善寺の山門がある。「ええもんは福善寺、かたいもんは持光寺」という言葉があって、持光寺の門は花崗岩の石門なので、たしかに固い門なのだ。そして「ええもん」といわれたこの寺の門の欄間には立派な竜の彫刻があった。境内は工事の真っ最中でショベルカーなんかがあって、拝観にはジャマだった。境内には瓦の展示があった。

次は大山寺に向かう。道は山門から出てそれから山に向かって登って行くのだが、ちょっと遠回りになるので、近道するために墓地を行くことにした。墓石が並ぶ中、細い石段を上って行く。お寺の右端に着いて、ここから境内に入る。この寺の日限地蔵はなぜか受験の守り本尊になっているのだという。本堂はガラス戸が張られていて、そんなたいしたものではないのだが、境内の左には御袖天満宮がある。菅原道真が太宰府に流され、途中この尾道に寄たとき、村人にもてなしてもらっらお礼に着ていた衣の片袖をちぎって与えたのだという。その袖をご神体にしたのがこの神社なのである。
天満宮から広い石段を下った。この長い石段は大林宣彦監督の「転校生」で一夫と一美が転がり落ちた石段なのだ。




西国寺の仁王門


本堂から三重塔


毘沙門堂

 西国寺


山の斜面に水平につけられた道を東に歩いて行く。振り返ると、山の斜面に千光寺の伽藍が見えた。尾道は本当にお寺の町だと思ってしまうのだ。
左折して、西国寺に向かって上って行く。この坂の上りはきつくて長い。大きな門が見えてきて、門の両側には大きな草鞋が下げられていた。この門は安土桃山時代の仁王門である。

西国寺は天平年間(729749)に行基が開いたといわれ、かつては西国一の大寺だったのだ。この寺は何度か火災にあっているのだが、今の伽藍は至徳3年(1386)から60年ほどかけて順次再建されたのだ。
仁王門をくぐったらすぐに境内かと思ったら大間違いで、さらに朱の灯明が並ぶ
108段の石段を上らなければいけないのだ。参道の両側には持善院とか金剛院などの僧院が並んでいて、西国一の大寺というのがうまずける。
行く手を仰ぎ見ると、緑の山の斜面に堂塔の屋根がいくつも見える。特に朱の塔が
きれいであった。
広い境内に入ると正面に朱塗りの本堂がある。よくみたら本堂ではなくて「金堂」とかかれていた。至徳3年(1386)に備後国の守護大名山名氏によって建立されたもので、重要文化財に指定されている。金堂の右の石段を上って、毘沙門堂・大師堂のたつ広場に着く。三重の塔は毘沙門堂の右の渡り廊下の下をくぐる。石段を上って、右に曲がって行くと、正面に三重の塔が迫ってきた。三重の塔は鉄柵で囲われていて、すぐ下まで行くことはできないのだが、赤く塗られたきれいな塔であった。この美しい塔は永享元年(1429)に足利義教によって建てられたもので、重要文化財に指定されている。




 四郷寺界隈
林芙美子が卒業した尾道東高校


西郷寺の山門


西郷四郎逝去の地


西国寺から上ってきた道を引き返して、林芙美子の文学碑を見に行った。文学碑は林芙美子が卒業した尾道東高校(旧尾道高等女学校)の正門の内側にあるのだ。校門には「無断で校地内への立ち入りを禁止します」という標識があった。でも、そのすぐ先に石碑があるので、その前まで行った。


  巷に来れば憩ひあり
 人間みな吾を慰めて
 煩悩滅叙を歌ふなり

と刻まれている。この文学碑は芙美子の七回忌に、川端康成の揮毫でたてられたものなのだ。
学校の校内に入り込んでいるのだから、不審者として捕まる前に早々に退散した。
この高校の少し下に西郷寺がある。時宗の古刹で、山門は応永2年(1353)の建立で重要文化財なのだ。そんなにりっぱなものには見えないのだが、本堂も重要文化財らしい、簡素にすっきりした建物であった。この本堂の天井は鳴き龍として有名なのだが、時間はもう18時を過ぎていて、当然、中に入ることはできない。
車から少し行くと、道端に柔道着姿の銅像がたっていた。小説「姿三四郎」のモデルになった西郷四郎の銅像なのだ。西郷は講道館の創設者・嘉納治五郎のもとで日本柔道を大成した奇才である。彼は病気療養のために尾道にやってきたのだが、57歳でこの地で亡くなったのである。




浄土寺への遊歩道


浄土寺山門


浄土寺境内


海竜寺の入口

 浄土寺界隈


展望が開けて、山の斜面につけられた水平な道を行く。行く手には「しまなみ海道」の尾道大橋が見える。

すぐに浄土寺の赤い山門に着いた。
浄土寺は推古天皇の
24年(616)、聖徳太子によって創建されたという中国地方きっての名刹なのだ。遊歩道に面してたつ赤い山門はあまりたいしたものには思えないのだが、重要文化財である。
境内に入って見回すと伽藍は赤く塗られていて華やかな感じがする。
正面にたつ入母屋造り赤い本堂は、嘉暦元年(1326)に再建されたものだが国宝である。本堂と回廊でつながる阿弥陀堂がある。これも重要文化財だ。
浄土寺でもっとも美しいのが国宝の多宝塔だと思う。本堂再建の翌年に完成したものなのだ。この美しい塔をしみじみ眺めてしまった。
境内には古い納経塔と宝篋印塔が二基たっていた。納経塔は弘安元年(
1278)のもので、尾道最古のものである。ともに重要文化財なのだ。

浄土寺から山門を出て、東に歩いてゆくと海竜寺がある。石段には赤い幟が並んでいて、そこには中国地蔵尊霊場とかかれていた。石段を登って山門をくぐる。
この寺で有名なのは、植村文楽軒と竹村弥太郎の墓があることなのだ。植村文楽軒は人形浄瑠璃の創始者で、竹村弥太郎は義太夫節で活躍したひとである。でも、正確には墓ではなくて、追善供養塔なのだ。この寺の裏山の山頂には浄土寺の奥の院があって、三十三観音の石仏がたつ「観音のこみち」が続いている。山頂からは尾道水道が一望できるというので登ってみたいのだが、30分もかかるので止めた。
海竜寺から浄土寺山門まで戻って、そこからまっすぐに石段を下って、国道に降り立つ。ここに浄土寺下というバス停があるので、JR尾道駅までバスに乗った。あまり待つことなくバスに乗れた。


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