尾道駅→林芙美子像→持光寺→陣幕久五郎の墓→光明寺→海福寺→播竜の松→吉備津彦神社→宝土寺→尾道市文学公園(志賀直哉旧宅)→文学記念室→中村憲吉旧宅→千光寺→天寧寺三重塔→天寧寺羅漢堂→慈観寺

尾道は以前から一度ゆっくり歩きたいと思っていたところなのだ。坂の町であり、文学の町であり、お寺の町でもある。そして、その美しい景観は映画のロケ地として何度も使われているのだ。私は尾道の古寺をめぐる道をすべて歩いてめぐることにした。すばらしかった。



 尾道駅前
JR尾道駅


商店街の入口に林芙美子の銅像がある

BACK 山陰の旅 竹原

2008年5月30日

私は九州の山や四国の山を登るために何度も尾道を通っているのだが、時間に余裕がなくて素通りするだけであった。でも、今回は坂の町であり文学の町であり、お寺の町でもある尾道のすべてを堪能したいと思っている。JR尾道駅から浄土寺までの全コースを歩いてめぐるつもりだ。
駅前は大きなロータリーがあって、よく整備されていた。

駅から国道を東に歩いてゆくとアーケードの商店街があって、その手前に林芙美子の銅像があった。傘と鞄を横に置いて、和服でしゃがんでいる像である。
林芙美子は大正5年(1916)に尾道第二尋常小学校に転入してきて、尾道高等女学校を卒業したのである。銅像の下には歌碑が置かれている。
 海が見えた
  海が見える
 五年振りに見る
 尾道の海はなつかしい

これは、彼女の代表作「放浪記」の一節である。
ここから歩道橋にあがって、山側に渡る。




石畳の道を行く


途中にあったポケットパーク


光明寺山門


吉備津彦神社
 吉備津彦神社まで


白壁の塀に沿ってゆくと、左に持光寺がある。急な石段を上ると、大きな石のアーチ門があった。これは
17枚の花崗岩を組み合わせて造られた大門なのである。この寺の開基は平安時代だそうで、国宝の普賢延命菩薩画像を有しているのだが、これは年1回しか公開されないのだ。
持光寺からすごく細い石畳の道を行く。これは古寺めぐりの遊歩道で、途中にはポケットパークという休憩所も設けられていた。
休憩所の先は墓地になっていて、その中に「第12代横綱陣幕久五郎の墓」があった。陣幕は幕末から明治にかけての横綱で、入幕から引退まで875敗という輝かしい戦績を残しているのだ。文才もあったようで、
 うけながら 風の押す手を 柳かな
という句碑があった。すぐに光明寺の境内に入る。さっきの墓地は光明寺のものだったのだ。光明寺は承和年間(
834848)に慈覚大師が開いたといわれて、尾道では4番目に古い寺なのだ。でも、境内には別に見るべきものはなかった。
山門をくぐって石段を下る。まっすぐに下ると右に海福寺がある。嘉歴3年(1328)開基の時宗の寺である。ここで有名なのは、境内にある「三ツ首様」なのだ。なんとも、横溝正史の小説のような名前である。
文政11年(1828)三人の盗賊が捕らえられて処刑されたのだが、その夜にこの寺の住職の夢枕にたって、「我々3人の首を埋葬供養してくれたら、首から上の病気を治すだろう」と告げたのだそうだ。頭痛や眼病の平癒を願ってお参りする人が多いという。
このお寺の裏には播竜の松があった。水平に長く伸びた松で、市の天然記念物である。
いったん光明寺の山門の前まで引き返してから右折する。少しゆくと吉備津彦神社があった。お寺のお堂のようなのだが、注連縄を張ってあるので神社とわかった。崇仁天皇が派遣した四道将軍の一人で、山陽道を平定したのが吉備津彦である。この神社はすごく小さくて、たいしたことないように思うのだが、奇祭ベッチャー祭で有名なのだ。でも、私はこの祭りのことをまったく知らない。
このすぐ先にあるのが宝土寺である。吉備津彦神社はこの寺の境内にあるような感じなのだ。


 尾道市文学公園
尾道市文学公園の入口


文学公園からの眺め


文学記念室への道


宝土寺から左折にして、急な石段を上ってゆく。民家の間に続く狭くて急な石段はいかにも尾道らしい。石段の途中に「尾道市文学公園」の入り口があった。この公園の上に志賀直哉の旧宅があるのだ。公園にはたくさんの文学碑があるのだが、知らない作家がほとんどだった。(私が文学に無知なだけなのだが…)ただその中に倉田百三の文学碑があった。彼の「愛と認識との出発」は私の愛読書のひとつなのだ。

文学碑の広場の上に志賀直哉の旧宅がたっている。志賀直哉はたしかに尾道に滞在したのだが、その期間はわずか半年ほどなのだ。
石段に戻って、さらに上ると右に文学記念室がある。この庭には怪傑黒頭巾の石碑もあった。この文学館の中に黒頭巾の作者・高垣眸や、新国劇の月形半平太・国定忠治の作者・行友李風の展示があるのだ。記念館の別棟には林芙美子の東京の書斎が再現されていた。
庭からは尾道の町並みと海を展望することができる。尾道のすぐ向かいには向島が横たわっているので、海はまるで川のような狭さである。尾道水道という。そこを大きな船が行き来しているのいるので海とわかるのだ。すばらしい眺めである。

ここから中村憲吉の旧宅に向かった。中村憲吉はアララギ派の代表的な歌人で、療養のためにここに引っ越してきたのだが、結局ここで亡くなっている。でも、私はこの人のことはまったく知らない。

  千光寺に 夜もすがらなる 時の鐘
  耳にまぢかく 寝(い)ねがてにける




千光寺の伽藍が見えてきた


千光寺の鐘楼


天寧寺本堂


羅漢堂
 千光寺の道


中村憲吉旧宅からさらに石段を上って千光寺を目指す。途中に毘沙門堂を見て、さらに上ると赤い伽藍が見えてくる。これが千光寺の本堂で、舞台造りになっている。千光寺は大同元年(
806)の創建という古刹で、尾道を代表する寺院である。舞台造りの本堂からは尾道の海と街を一望できるのだ。本堂の横には竜宮造りの鐘楼がたっていて、なにかしらエキゾチックな雰囲気である。
本堂のすぐそばに巨岩がそそり立っていて、その上に石の玉が載っている。玉の岩や宝珠岩、烏帽子岩とも呼ばれ、尾道の街から見上げると際だった見えるのだ。千光寺は山の斜面にたっているのだが岩壁に囲まれていて、岩には梵字が刻まれていたりするのだ。石仏も刻まれている。
この寺からは、文学碑が並ぶ「文学のこみち」を上って山頂まで行くことができる。ロープウェイも通じているのだ。
上って来た道を引き返して天寧寺に向かった。下には塔の甍屋根が見えるので、まずここに立ち寄った。これは天寧寺の三重塔で、当初は五重塔として造られたのだが、上部が破損したため元禄5年(1692)に三重塔として改築されたのだという。
ここから石段を下って天寧寺の境内に着く。天寧寺は足利二代将軍の義詮が建立したという曹洞宗の寺である。ここで有名なのは五百羅漢像なので、まず羅漢堂に入った。江戸中期から明治にかけて寄進されたもので、有料かと思ったら無料だった。堂内には釈迦十大弟子・十六羅漢・五百羅漢、合計526体の羅漢が安置されていて、その眺めは壮観である。羅漢像のうち釈迦十大弟子像は彩色されていて、独特な雰囲気を醸していた。
天寧寺からさらに東に向かって歩き、ロープウェイのさんろく駅を回り込むと慈観寺に着く。
貞治元年(1362)に慈観上人が開基したという時宗の寺院である。天保の大飢饉のとき、町年寄りだった橋本竹下が、飢饉の難民を救済するために本堂の改築を行ったという。今でいう公共事業で、このおかげで尾道では一人の餓死者も出なかったという。二層屋根の立派な本堂であった。


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