白壁の塀に沿ってゆくと、左に持光寺がある。急な石段を上ると、大きな石のアーチ門があった。これは17枚の花崗岩を組み合わせて造られた大門なのである。この寺の開基は平安時代だそうで、国宝の普賢延命菩薩画像を有しているのだが、これは年1回しか公開されないのだ。
持光寺からすごく細い石畳の道を行く。これは古寺めぐりの遊歩道で、途中にはポケットパークという休憩所も設けられていた。
休憩所の先は墓地になっていて、その中に「第12代横綱陣幕久五郎の墓」があった。陣幕は幕末から明治にかけての横綱で、入幕から引退まで87勝5敗という輝かしい戦績を残しているのだ。文才もあったようで、
うけながら 風の押す手を 柳かな
という句碑があった。すぐに光明寺の境内に入る。さっきの墓地は光明寺のものだったのだ。光明寺は承和年間(834〜848)に慈覚大師が開いたといわれて、尾道では4番目に古い寺なのだ。でも、境内には別に見るべきものはなかった。
山門をくぐって石段を下る。まっすぐに下ると右に海福寺がある。嘉歴3年(1328)開基の時宗の寺である。ここで有名なのは、境内にある「三ツ首様」なのだ。なんとも、横溝正史の小説のような名前である。
文政11年(1828)三人の盗賊が捕らえられて処刑されたのだが、その夜にこの寺の住職の夢枕にたって、「我々3人の首を埋葬供養してくれたら、首から上の病気を治すだろう」と告げたのだそうだ。頭痛や眼病の平癒を願ってお参りする人が多いという。
このお寺の裏には播竜の松があった。水平に長く伸びた松で、市の天然記念物である。
いったん光明寺の山門の前まで引き返してから右折する。少しゆくと吉備津彦神社があった。お寺のお堂のようなのだが、注連縄を張ってあるので神社とわかった。崇仁天皇が派遣した四道将軍の一人で、山陽道を平定したのが吉備津彦である。この神社はすごく小さくて、たいしたことないように思うのだが、奇祭ベッチャー祭で有名なのだ。でも、私はこの祭りのことをまったく知らない。
このすぐ先にあるのが宝土寺である。吉備津彦神社はこの寺の境内にあるような感じなのだ。
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