宗道天皇社→元興寺塔跡→奈良町資料館→庚申堂→元興寺小塔院→元興寺極楽坊

奈良町というのは興福寺の南に広がる町並みで、江戸時代はここが奈良の中心街だったのだ。今も格子の古い民家が残っていて、楽しい散策ができる。町の中にある元興寺は蘇我馬子によって開かれた寺院で、その後、南都七大寺の一つとして栄えたのだが、今は極楽坊を残すだけである。街の中には元興寺の塔跡や塔小院などの遺蹟も散らばっている。


 宗道天皇社
フェリーで名古屋に着いた


神社の前にあった民家


宗道天皇社入り口


宗道天皇社本殿


2008
113日(月)

昨日の1250分仙台港発の太平洋フェリーに乗って、名古屋港に着いたのは10時半であった。今回の旅は山陰の山を登るのが目的である。中国百名山の残り43を登り終えるつもりである。
でも、これから山陰に向かっても、今日の登山は無理なので寄り道をして行くことにした。今、奈良では第60回正倉院展が開催されているので、これを見に行くことにした。
私が大阪に住んでいた若い頃、正倉院展には毎年行っていたのだ。懐かしい。
奈良に着いたのは14時頃で、マクドに入ってネットで正倉院展の状況を調べたら日曜祝日は19時までで、16時を過ぎると入館者は減るらしい。昔もそうだったのだが、正倉院展は人がいっぱいで、行列して見学するのだ。それに今日は月曜日であるが文化の日で、三連休の最後の日である。大混雑が予想されるので、入館するのは16時以降にしようと思う。
そこで、博物館に入る前に奈良町の散策をすることにした。
マクドから北に向かって歩いて行くと、崇道天皇社があったので、ここにお参りした。崇道天皇っていたっけと思って調べたら、これは早良親王のことなのだ。早良親王は第49代光仁天皇の息子で、第50代天皇には光仁天皇の兄である桓武天皇天皇が即位したのだが、皇太子となって次の天皇に即位するはずだったのだ。ところが桓武天皇は自分の息子に天皇位を譲りたくて、早良親王に濡れ衣を着せて淡路島に流刑ということにしててしまうのだ。でも、早良親王は京都洛西の乙訓寺に幽閉中、断食して10日でなくなってしまう。無理矢理自殺させたという説もあるのだが。
その後、桓武天皇の后・皇后・母親と相次いで亡くなり、皇太子とした自分の息子まで病気になってしまって、これは早良親王の祟りだということになったのだ。その怨霊を鎮めるために「崇道天皇」という名前を与えたのである。その神社がこんなところにあるとはちっとも知らなかった。赤い鳥居をくぐって長い参道を歩いて、さらに門をくぐって境内にはいる。本殿は参道の左にあるのだ。さぞや無念であったろう早良親王のために手をあわせた。



 元興寺塔跡
古い家並みを行く


元興寺塔跡の入り口


格子の家並みを歩いて、元興寺塔跡に着いた。元興寺は、平城遷都によって飛鳥にあった飛鳥寺を遷したものなのだ。講堂・金堂・中門・南大門が一直線に並び、東西に五重塔を配する大伽藍で、奈良では東大寺に次ぐ大寺だったのである。その五重塔の基壇と礎石がここに残っているのである。

立派な石柱のたつ寺門をくぐって境内に入ると、左に地蔵堂のようなものがあって、そこには古い石仏がいくつも並べられていた。参道の正面に基壇があって、芝生のような壇上に礎石が散らばっている。礎石はすごく大きくてさぞや立派な五重塔だったのだろうと思う。基壇の前を左折するとその正面に本堂がたっている。でも扉は閉ざされていた。この本堂の前には石灯籠の台座だけが残っていて、さらに仏足石もあった。でも、あまり古いものとは思えない。ともかく元興寺の面影を忍べるのは大きな礎石だけであった。



 奈良町散策
古い民家が並ぶ



再び格子窓の古い民家の間を歩いて行くと奈良町物語館という古い家があった。この建物は
100年ほど前の伝統的な町屋をそのまま使ったものなのだ。
枡形のように鍵形に曲がる角には古い石仏があって、総本家きくおかという石碑がたっていた。そのすぐ先に奈良町資料館がある。この資料館の前には丸くて赤い人形のようなものがいくつも下がっていた。これは「身代わり申(さる)」といって、庚申さまのお使いである猿をかたどったお守りなのだ。
この先で左折して南に歩いて行くと庚申堂があった。これがさっきの身代わり申の主である庚申さまを祀っているお堂なのだ。お堂の前には猿が捧げ上げる石盤があった。引き返して行く途中で元興寺小塔院跡を見つけた。これは西の五重塔の跡なのだ。でも、門をくぐって細い道を歩いた先には小さなお堂があるだけで、五重塔の基壇を思わせるものは一切なかった。



 元興寺極楽坊
元興寺極楽坊入り口


極楽坊と僧坊



次に向かったのは元興寺極楽坊である。この極楽坊はかっての元興寺大伽藍のうち、講堂の後ろにあった僧坊を改築したものなのだ。

でも、この極楽坊とその後ろに続く禅室はともに国宝に指定されているのだ。そしてこの建物に使われている屋根瓦は飛鳥から運ばれた日本で最初の瓦なのである。
極楽坊の中には、その名前の通り、阿弥陀如来のいます極楽浄土の曼荼羅が祀られているのだ。板絵の智光曼荼羅は古くてよく見えないのだが、後ろにまわるとその模写されたものがあって、これではじめてどんな絵だったのかわかる。
境内には収蔵庫があって、この中には国宝の五重小塔がある。これは天平時代につくられた五重塔の十分の一の模型で、天平の五重塔は現存しないので、その建築様式を知るための貴重な資料なのだ。
境内にはたくさんの石仏や石塔が並んでいる。これは実は墓地なのである。南都七大寺は官寺であり、仏教の修行・学問のための寺で檀家はもたないのだ。それなのに墓地があるということは、元興寺は庶民信仰の寺に変貌してしまったということである。平安時代の後期には元興寺はかなり衰退してしまったというから、その苦労のあらわれなのかもしれない。


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