中津の町はけっこう見所が多いことを知った。黒田如水が天正15年(1587)が築いた城下町は、以後、細川家、小笠原家、奥平家と引き継がれたのだが、今もその古い城下町の佇まいが残されているのだ。

中津城→生田家の門→中津歴史民俗資料館→織部灯篭→村上医家資料館→むろや醤油→蛭子宮→自性寺大雅堂→金谷武家屋敷


 中津城から歴史資料館へ


南部小学校の校門


中津歴史民俗資料館

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2011年10月1日

お城の駐車場から自転車で南に向かって走ると、すぐにりっぱな門があった。南部小学校の校門なのだが、元々は奥平中津藩家老の生田家の門だったのだ。

次に木村記念館に行ったのだが、工事中で閉館していた。医師の木村又郎が収集した茶の湯道具と郷土出身の画家中山忠彦の作品が展示されているというのだが、画家の名前は知らないし茶道にも興味がないので、こだわることなく次に向かった。
中津市歴史民俗資料館に着いた。
ここの館長がすごい話し好きで、私についてまわって、館内の展示物を詳細に解説してくれた。すごく時間をかけてしまったが、勉強になった。
ここから東に向かって広い道を走って行く。ギャラリーカフェで右折しようとして、織部灯籠を見逃したことに気がついた。引き返してこれを見つけたのだが、なにかしら工事中で、石灯籠の前には工事の資材が積まれていて、作業員が忙しげにモッコを動かしていた。




 諸町を自性寺へ


蛭子宮の入口


大雅堂


自性寺境内


細い道を南に向かうとすぐに道が舗装なって、ここで右折する。この通りが諸町である。
西に向かって走って行くと、村上医家資料館がある。中津藩の御殿医を務めた村上家の屋敷で、医療にかんする資料が展示されているのだ。外だけみて通過した。
すぐに白壁の土蔵群が見えてきた。「むろや醤油」といって、享保元年(1716)創業という300年を越える老舗なのだ。

少し先には蛭子宮があった。商家の家並みの間に武家屋敷のような門があって、これをくぐると狭い境内があった。二代目藩主の細川忠興公が創建したという神社で、今も多くの信仰を集めているらしい。
西に向かってしばらく走ると自性寺に着く。ここには大雅堂という、池大雅の作品展示館があるのだ。これは見ることにした。

池大雅は画家だと思っていたのだが、書の大家でもあったのだ。作品はふすまに作品を貼り付けたもので、これは本物なのか、コピーじゃないのか…と疑ってしまった。
隣に自性寺がある。この寺は奥平家の菩提寺で、本堂の横には奥平家の墓所があった。この寺にはカッパの墓があるというので探したが見つからない。お寺の人に訊いたら、境内からいったん出て、墓地に行かなければいけないのだ。墓石がいっぱい並んでいて、これは探すのは大変だと思ったが、意外と簡単に見つけることができた。大きな龕堂で、中に五輪塔が収まっていた。
墓地を散策していたら、中津三代目の藩主となった小笠原長勝公の墓もあった。りっぱな五輪塔なのだが、ひとつだけポツンとあるのだった。
墓地には異様に鮮やかな、朱色の彼岸花(曼珠沙華)が満開であった。白い曼珠沙華を初めてみた。




 金谷武家屋敷通り


武家屋敷の雰囲気になった


大江八幡宮


自性寺から自転車を走らせてJRの踏切を渡る。このあたりは金谷武家屋敷で、いかにも武家屋敷らしい家並みが続いていた。その中の「金谷上ノ丁交流広場」という案内標識があった。普通の屋敷の門をくぐるのだった。中にはガランとした広場で一角が武家屋敷の庭になっていた。
さらに家並みを歩いてゆくと児童公園があって、そこに「水島鉄也生誕の地」の碑があった。まったく聞いたことのない人である。
光明院、大江八幡宮を過ぎると武家屋敷の佇まいは終わる。




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