中村は応仁の乱を逃れて下向した関白一條教房が住まった町で、小京都の面影をいたるところに残している。中村城があった城山には天守閣が再建されていて、町のいたるところから、この城山を仰ぎ見ることができるのだ。町のすぐそばには四万十川が流れていて、これを少し遡ると沈下橋を見ることができる。

幸徳秋水の墓→中村城跡→一條神社→お化粧井戸→佐田の沈下橋→三里の沈下橋→安並水車の里公園→太平寺→不破八幡宮→中村駅


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今日は観光するのだ。疲れてきたし、少しリフレッシュしたい。
中村、今は四万十市といううのだが、その近くの国道の横で寝た。
最近は5時半になると明るくなってくる。6時に行動開始。朝早いうちに町の中を車でまわってしまおうと思う。人通りがなかったら、どこでも駐車できるではないか。
街の中を中村城跡に車を走らせると「幸徳秋水」の墓という表示があった。裁判所の前に車を停めていってみた。
民家の間の細い路地を入ると墓地があって、そのなかにあまり目立つことなく幸徳秋水の墓はあった。明治4年に秋水はこの中村で生まれたのだ。中江兆民に師事してその後社会主義運動に身を挺するようになって、明治44年の大逆事件で死刑となっている。
細い道を走って城山に登って行く。平坦になったらそこには石碑が並んでいた。ここは東の城跡で石碑には南海大地震記念碑と刻まれていた。これから南海大地震が起きる可能性が高いと騒がれているのだが、過去にもそうした地震があったのかと驚いてしまった。
車をさらに走らせて、郷土資料館の近くに車を停めた。
石段を登って資料館の前に着く。資料館は犬山城を模して復元した鉄筋コンクリートの天守閣である。時間はまだ6時半なので、もちろん閉まっている。外から写真だけを撮った。
資料館から車に戻ると、その向かい側の丘は桜が満開で、お花見のちょうちんまで下がっている。
桜を見に登ってみた。桜の丘からすぐ下に中村市街を見下ろすことができた。
城跡内のイラストマップがあったので、それを見ると近くに幸徳秋水の歌碑があるというのでので行って見た。その歌は漢詩で、秋水が死刑宣告されたときに詠じたものなのだ。

細々とした成功失敗について、今あげつらうのは止めよう。
人生への意気を捨てぬことこそ、古今を通じて大切なのだ。
このように私は生きてきて、このように私は死んでゆくが
罪人となって、あらためて無官の平民の尊さを覚ることができた


城跡から下って、街の中にある一條神社に行った。この神社は一條御所(中村御所)の跡でもある。
この地に荘園をもっていた一條氏は応仁の乱の京を逃れて中村にやってきたのだが、その後土佐一條氏としてここに住んだのだ。
神社はアーケードの商店街の入口横にあるのだ。石段を登って行くと、「咲かずの藤」という説明板があった。土佐一條氏は戦国時代になって、長曾我部氏に追われてしまうのだが、この屋敷を立ち去るときに「植え置きし 庭の藤が枝 心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな」という歌を詠み残したのだそうだ。かなり恨みがましいのだが、そのためにこの藤の木は300年間にわたって花を咲かせなかったのだそうだ。
階段を登りきった広場の正面には本殿がたっていて、その左には天神社があった。
この神社には化粧井戸という一條御所で使っていた井戸が残っているというので、これを探した。境内をいくら探してもないのであきらめて石段を下りていったら、神社の社務所の横に入口があった。旧御所には七ツの井戸があったというが、現存するのはこの井戸だけなのだ。御所の女官、侍女がお化粧のためにこの井戸を使用したためこの名がついたらしい。小さな中庭にお化粧井戸はあった。なにかしら雅な感じのする井戸であった。
これで町の中の散策は終えて、郊外に向かった。四万十川の上流には二つの沈下橋がある。これを見に行こうと思うのだ。沈下橋というのは、大雨などで増水したときには水面下に沈んでしまうようにつくられた、欄干のない橋なのだ。四万十川には沈下橋がけっこう多くて、47もあるのだそうだ。
四万十川に沿って車を走らせて行く。けっこう距離があった。
佐田の沈下橋に着く。この橋は四万十川の最下流にかかっていて、長さは291.6mと四万十川にかかる橋では一番長いのだ。
河原に降りて橋を眺める。おあつらえ向きに屋形船がつながれていた。悠々と流れる四万十川とそこにかかる沈下橋はものすごく絵になるのだ。せっかくなので、この300mほどの橋を渡って向こう岸まで歩いてみた。橋から眺める四万十の流れもすばらしかった。向こう岸には菜の花が咲いてきれいだった。
さらに上流に向かう。三里の沈下橋があるのだ。四万十川がほとんど円を描くように蛇行していて、その向こうに三里の沈下橋はあった。
この橋はほっそりとしていて、これが四万十の青い川面に一直線に伸びている。黄色の菜の花とあいまってすばらしく美しい眺めであった。この橋も向こうまで渡ってみた。川風が気持ちよくて、四国遍路をしたときに吉野川にかかる沈下橋を渡ったことを思い出してしまった。
中村に引き返す。ガイドブックには町の北に「安並水車の里公園」があると書かれている。
佐田から小さな峠を越えて岩田の集落に入って、田んぼの中を走って行くと、たくさんの水車が一列に並んでまわっているのが見えた。これはけっこうすごい水車の風景である。
この水車の前には小さな公園があって、この水車の由来をかいた看板がたっていた。
どの水車もそんなに大きいものではないのだが、これが水路に沿って十以上も並んでいるのはすばらしい眺めなのだ。この水車が並ぶ水路の向こうには中村城の天守がたつ城山が見えた。
後川に沿って車を走らせて太平寺に行った。この寺は文和年間(13521356)創建の古刹で、一條氏の時代には非常時の避難場所だったところで、お城のような石垣が築かれ、土塀には矢狭間が設けられているのだ。期待して行ったのだが、矢狭間が残るという塀はすごく新しいものであった。
このお寺の近くにある不破八幡にも立ち寄った。この神社の本殿は国の重要文化財なのだ。
これで、中村の散策を終えた。まだ9時半である。国道沿いに温泉があったので、ここで登山の汗を流してのんびりした。

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幸徳秋水の墓


南海大地震記念碑


幡多郷土資料館


幸徳秋水歌碑


一條神社


お化粧井戸の入口


佐田の沈下橋


三里の沈下橋


安並水車の里公園


太平寺


不破八幡宮






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