長崎は異国情緒あふれる街である。そして広島と同じ原爆を投下された街でもある。
私はまず、原爆の平和公園からスタートして、路面電車をフル活用して市街をまわった。


長崎散策コース
長崎原爆資料館→原爆落下中心地碑→平和公園→浦上天主堂→日本二十六聖人殉教地碑→宗福寺→大浦天主堂→グラバー邸→旧長崎英国領事館→オランダ坂→東山手洋風住宅群→出島→長崎中華街


 原爆落下点と平和公園
長崎原爆資料館


長崎原爆落下中心地碑


平和公園


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2005年25

今日は土曜日である。それなのに諫早から長崎市街に向かう道はメチャクチャに渋滞していた。
まず平和公園にいった。
原爆資料館があるので、ここに車を停めた。
私は原爆の資料館は長崎被爆50周年の平成8年に開館したもので、被爆前の長崎の様子や被害や原爆の恐ろしさについて展示しているのだ。ただ、こうした展示はあまりにも悲惨すぎて細かに見る気になれない。
でもこれらの展示のなかで大浦天主堂側壁の復元は迫力があった。
資料館を出て、川に向かって下ると公園になっている。そこが原爆投下地点であった。昭和20年8月9日午前11時2分、この地点の上空500mで原爆が炸裂したのだ。黒い御影石のオベリスクが空に向かって突き立っていた。

ここから少し行くと平和公園への登り道がある。ここでは毎年8月9日に平和記念式典が開かれるのだ。
高台に上ると、噴水などがあってきれいな公園になっている。噴水から真っ直ぐに歩道が伸びていて、その突き当たりに平和祈念像がある。長崎県出身の彫刻家北村西望による高さ9.7mのブロンズ像である。
空を指す右手は原爆の脅威を、水平にのばした左手は地上の平和をあらわしているのだという。

平和祈念像は昔みた通りの姿で立っていた。




 浦上天主堂
浦上天主堂


浦上天主堂のお庭


次に目指したのが大浦天主堂。
交差点から坂道を登って天主堂の前に着く。
この浦上天主堂は、弾圧に耐えて信仰の自由を得た浦上のキリシタンが、33年かけて大正14年(1925)に完成させたsものである。でも、原爆投下によって崩壊してしまい、現在の建物は昭和33年に再建された鉄筋コンクリート製である。
天主堂の入り口の両側には入り口は、聖人像が立っていて、さっき原爆資料館でみたのと同じであった。もちろんこっちが本物である。

教会の中に入ることもできる。

平和公園の前で、ほか弁を食べた。
ここで車を移動させた。資料館前の駐車料金はけっこう高くて、最初の1時間が100円で、あと30分毎に100円なのだ。
新しく見つけたのは20時までなら、500円というところなのだ。今日は1日中長崎市街を歩きまわるつもりなので、このほうがいいのだ。
市電の
1日乗車券を買った。長崎市街は路面電車が走っていて、1回の料金は100円なのだが、1日乗車券のほうが安上がりである。



 二十六聖人殉教碑と崇福寺
二十六人聖人殉教碑


宗福寺


市電に乗って、まず長崎駅に行く。ここで日本二十六聖人殉教碑を見た。
慶長2年(1597)豊臣秀吉の禁教令によって京都から送られた6人の外国人宣教師と20人の信徒がこの丘で処刑されたのである。この26人は250年後にローマ法王から聖人の称号を受けたのだそうだ。26人がずらりと横一列に並んだレリーフは見応えがある。中には子供もまじっていた。
再び路面電車に乗って崇福寺に行く。この寺は長崎寺町の南端に建っていて黄檗宗の古刹である。長崎在住の中国福建省出身舎が明の超然を招いて、寛永6年(1629)に創建したのだという。
まず、竜宮城のような赤い山門がある。日本の寺院とはまったく違う雰囲気なのだ。
黄檗禅のお寺はたくさんの赤い提灯で飾られて、中国の寺院そのもののような気がした。




 大浦天主堂とグラバー邸
グラバー園の入口


旧ウォーカー邸


旧オルト邸


旧スティル記念学校


グラバー邸に着いた

路面電車で、大浦天主堂に向う。これは外から眺めるだけ。
その近くにはグラバー邸がある。この入園料はけっこう高くて、1000円もするのだ。
私は単純にグラバーという人の邸宅だけを観るのだと思っていたのだがそうではないのだ。グラバー邸ではなくて「グラバー園」というのが正しくて、ここにはたくさんの洋館が集められていて、広い庭園の中に移築された洋館をを散策しながら観てまわるのだ。

エスカレーターで一番上まで上がってしまう。
この一番上にある洋館が「旧三菱第二ドッグハウス」である。ここからは長崎の市街を見下ろすことができる。すばらしい眺めである。ドッグハウスというのは、船が修理のために造船所に入っている間、乗組員たちが宿泊した施設のことなのだ。これを皮切りに、いくつもの洋館を見学しながら下って行く。
明治16年に建てられたという旧長崎地方裁判所長官舎の前を過ぎると、次にあるのが旧リンガー邸である。三方をベランダに囲まれていて、バンガローみたいなのだが、これは国の重要文化財に指定されているのだ。ベランダの床石はわざわざウラジオストックから運んできた御影石なのだ。
次に旧ウォーカー邸の前に出る。明治の実業家ロバート・ネール・ウォーカーの次男が大浦天主堂のすぐ隣に建てたもので、円形のベランダは今と同じように港に向かって開かれていたのだという。
さらに進んだ突き当たりにあるのが旧スティル記念学校である。明治20年、東山の丘に建てられたミッション系の学校でアメリカの伝道局長スティル博士が18歳でなくなった我が子を記念して創設された学校である。昭和7年に東京に移築さらたのだが、昭和49年にここに戻ってきたのだそうだ。
引き返す。オルト邸、リンガー邸を過ぎて、さらに歩いて行くと日本髪の女性の銅像が立っていた。三浦環の像と書いてあるのだが、この人だぁれと思ってしまう。あの有名な日本を舞台にした歌劇「蝶々夫人」を演じたオペラ歌手なのだ。このすぐ先には「蝶々夫人」を作曲したプッチー二の銅像もあった。
このすぐ先には「西洋料理発祥の地」というモニュメントがあって、そこに旧自由亭があった。今もレストランとして営業しているのだ。
自由亭から石段を下るとグラバー邸である。グラバー邸は1863年に建てられていて、日本で最も古い木造西洋風建築なのだ。国の重要文化財である。グラバーはスコットランド出身で、21歳の時に長崎の開港と同時に来日してグラバー商会を設立したのだ。時は幕末の激動期で、徴収の伊藤博文とも親交があったのだ。
グラバー邸は正面玄関を設けないクローバー型の建築で、グラバー自身が設計したのだという。
けっこう見ごたえがあって、時間がかかった。



 オランダ坂と東山洋風住宅群
旧長崎英国領事館があった


オランダ坂

グラバー邸から再び路面電車に乗って出島に向かった。
出島に行く前に山の手を散策することにした。まず偶然見つけたのが、旧長崎英国領事館。これは今「野口弥太郎記念美術館」になっているのだ。
山の手に向かって上ってゆくと、これがオランダ坂。
オランダ坂というのはここだけなのかと思っていたら、居留地へ向かう道はすべてオランダ坂というのだ。しかも、オランダ人の居留地かというとそうではなくて、長崎では東洋人以外はすべて「オランダさん」といったのだ。
東山十三番館をみてさらに行くと、東山洋風住宅群があった。明治30年頃に外国人への賃貸住宅として建てられたものである。淡い緑色の洋館が7軒建ち並んでいた。けっこう見ごたえがあった。



 出島と中華街
路面電車で出島に向かう


長崎内外クラブ


出島の模型があった

この山の手から下ったところに「孔子廟」がある。これは外から眺めるだけにして中には入らなかった。
再び電車で出島に向った。

出島は今はすっかり埋め立てられてしまって、島ではなくなっている。
とはいえ、出島界隈は現在復元工事がされて洋館がいくつも建てられつつある。
路面電車の築町停留所から出島に向かって歩いて行くと、まず旧出島神学校がある。明治11年に建てられたもので、現存する日本最古のキリスト教神学校なのだ。
この隣にたつのが旧長崎内外クラブ。長崎に在留する外国人と日本人の親交の場として、明治36年に建てられたものなのだ。
出島の模型が造られていて、これで昔の様子がわかる。水門が復元されていて、その隣では、出島の映画をしていた。

出島から、新地中華街に向かった。もう薄暗くなってきている。
中華街では、せっかく長崎に来たんだからと、長崎ちゃんぽんと中華うどんを食べた。
外に出たら、もう暗くなっていた。

翌日はハウステンボスで一日すごした。


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