安芸の宮島は名前の通りの島で、船で渡らなければいけないのだ。船が宮島に近づくと、海に浮かぶ大鳥居が見えてきて、その奥に鮮やかな朱塗りの厳島神社が見えてくる。絶景としかいいようがない。厳島神社は平家一門の深い信仰を集めて、この立派な社殿が造られたのである。

宮島桟橋→厳島神社(客神社→東回廊→本社→火焼前→西回廊→天神社→能舞台→反橋)→大願寺→清盛神社→大元神社→宝物館→五重塔→千畳閣→宮島桟橋


 宮島
宮島行き船の乗り場


宮島航路のJR船


宮島には鹿がたくさんいる

厳島合戦跡の説明板がある


日本三景の石碑

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200858

宮島を観光する。
安芸の宮島は周囲31kmほどの島で、天橋立・松島と並んで日本三景の一つである。宮島は紅葉も美しいのだが、観光の目玉はなんといっても世界文化遺産の厳島神社である。
厳島神社の創建はすさまじく古くて、その最初は島自体を御神体としていたという。推古天皇元年(593)、佐伯鞍職によって御笠浜と西松原の間の入り江に社殿が建てられたのだ。その後、平清盛によって今のような寝殿造りの社殿が建てられたのである。総延長196mの回廊によって結ばれた鮮やかな朱塗りの社殿が海に浮かぶ姿はすばらしくきれいで、日本を代表する神社である。もちろん国宝に指定されている。
宮島口桟橋から船に乗って10分ほどで宮島に着く。船はJRと宮島松大観光の2航路があるのだが、料金は同じである。
船からしだいに近づく宮島を見ていると、山が大きく連なっている。そして、海に浮かぶ大鳥居が見えてくるのだ。この大鳥居は何度も建て替えられていて、今の鳥居は8代目、明治8年に再建されたものだが、重要文化財にしていされている。楠の自然木で造られていて、高さは16mもあるのだ。干潮時には鳥居の下まで歩いて行けるのだそうだ。
宮島桟橋からのビルから出ると広場があって、そこには奈良公園のように鹿がいるのだ。
広場には、厳島合戦跡の標識があった。
中国・九州地方の絶対的な権勢を誇っていた大内氏は天文20年(1551)に家臣陶清賢の謀反で滅亡してしまうのだが、大内氏と盟友関係にあったのだ毛利氏は、天文22年に陶清賢に対して挙兵したのだが、戦力的には圧倒的に不利であった。
その不利な状況を覆したのがこの厳島合戦なのである。弘治元年(1553)、防風雨と夜陰に乗じて厳島神社の背後の包ヶ浦に上陸して奇襲をかけ、大勝利したのである。これは織田信長の桶狭間の合戦とよく似ていて、これによって毛利元就は中国地方の覇者となる第一歩を踏み出すのだ。
厳島神社に向かって歩いて行くと日本三景の碑がたっていて、その碑には林春齋という名前が刻まれている。
日本三景というのは今では一般名詞になってしまっているのが、これを定めたのは林春齋なのである。春齋の父は徳川家康に重く用いられた林羅山で、彼が著した「日本国事跡考」の中で「卓越した三つの景観」として天橋立・松島・厳島を書き記して、これが日本三景となったのである。原典では天橋立・松島・厳島の順なのだが、この碑には厳島・松島・天橋立の順になっていた。松島では松島が一番になっているので、各地では自分が一番と思っているらしい。
石灯籠の並ぶ参道を歩いて行く。右には青い海が広がっていて、長く続く堤防の先に赤い大鳥居が見えてくる。左の岡の上には鮮やかな朱色の五重塔がたっていた。
参道を行くと大きな石の鳥居がたっていて両脇には大きな狛犬が並んでいる。
参道は御笠浜という小さな岬を回り込んで、すぐに厳島神社拝観の入口がある。



 厳島神社
厳島神社入口


入口から東回廊に向かう、左は客社本殿
東回廊


厳島神社の出口


厳島神社の歴史はすごく古い。

古くは島自体を神として崇めていたらしいのだが、推古天皇元年(593)に神社が建てられたのだ。今のような海に浮かぶ寝殿造りの社殿になったのは平清盛によってである。
久安2年(1146)、清盛は安芸の守に任じられたことによって瀬戸内海の制海権を手にし、莫大な利益をあげることになるのだ。この富によって勢力を拡大し、平家一門の繁栄が始まるのである。こうしたことから厳島神社を信仰するようになって、厳島神社と平家の結びつきは強くなって行くのだ。
神社の社殿は平安時代に造られたのだが、その後二度の火災に遭っていて、現在の本殿は元亀2年(1571)、客神殿は仁治2年(1241)に建てられたもので、この神社の建物のほとんどは国宝、重要文化財に指定されている。
神社の入口は本殿の左に伸びる回廊にある。受付から回廊を行くと、すぐ左に客社本殿がある。この前を真っ直ぐに進むと東回廊に突き当たって、これを右折して本殿に向かう。この水に浮かぶ回廊には灯籠が並んで、すごく美しい眺めなのだ。
祓殿に続く回廊から振り返ると、今歩いてきた回廊の上に五重塔を見ることができる。これがまたすばらしく絵になっているのだ。
本殿の前には舞台がしつらえてある。厳島神社は本殿・幣殿・拝殿・祓殿・舞台が一直線に並んでいて、その直線上の海に大鳥居があるのだ。舞台から大鳥居に向かって火焼前が伸びていてその先端に灯籠がたっている。
舞台から西回廊に向かう。
西回廊に突き当たって右折する。西回廊からは能舞台を見ることができる。この能舞台は江戸時代のもので、重要文化財に指定されている。ここでは春に桃花祭神能が演じられ、献茶祭では隔年交互に表千家・裏千家がお茶を点てて神前に献じるのだ。神社はすべて朱塗りと白壁なのだが、能舞台だけは地味な木肌のままである。でも、海に浮かぶ能舞台というのはなかなかのもので、これで能が演じられたらすばらしいのではないかと思ってしまう。
回廊の左側には天神社がある。でも、能舞台のように吹き通しになっていて、ご神体はどこにあるのだと思ってしまう。
西回廊の突き当たりの左には太鼓橋があった。
この反橋は重要な祭事のとき、勅使がこの橋を渡って神社に入ったのである。これも重要部下材なのだ。
右の回廊の先には能舞台がある。能舞台の前で左折して回廊を行くと出口である。



大願寺山門


中州から大鳥居を振り返る


お土産屋さんの中を戻った

清盛神社から千畳閣へ


厳島神社を出て右に行く。中州のようなところを行くのだが、これは西の松原といって御手洗川によって運び出された土砂や浜辺の砂を築固めた人工的な砂州である。この西の松原の真ん中に小さな神社がある。清盛神社という神社で、古いものかと思ったら大間違い、清盛没後
770年を記念して昭和29年にたてられたものなのだ。
この砂州から島に渡って、少し西に行くと大元神社がある。この神社は厳島神社よりもさらに古い創建だという。本殿は「大元葺」という板葺きで、中世の絵巻に見られるものなのだが現存するのはここだけで、重要文化財に指定されてしる。
あとは海辺に沿って引き返した。
途中、神社の宝物館があるので寄ってみた。ここには国宝の「平家納経」があるというので入ったのだが、それは複製であった。詐欺だ、と叫んでしまった。
厳島神社を裏から眺めながら歩いて、五重塔をめざして石段を上った。入口に横に長く伸びた「龍髯の松」があった。
五重塔は鮮やかな朱塗りなので新しい物かと思っていたら、応永14年(1407)の建立で重要文化財なのだ。
この五重塔の横に大きな建物がある。豊臣秀吉によって天正15年(1587)に着工されたのだが、秀吉の死によって、工事は中断してしまったのだ。このため天井の板張りや壁は造られることなく今に至っている。でも、桃山時代の豪壮な建物で、重要文化財なのだ。
あとはお土産屋さんの並ぶ通りをあるいて船の乗り場に戻った。


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