観光駐車場→横綱琴桜像→ふるさと工芸館→弁天堂→大蓮寺(脇屋義助・淀屋一族の墓)→赤瓦一号館→倉吉土蔵群→倉吉流しびな像→古い町並み→大岳院

倉吉は白壁土蔵のまちとして知られていて、「国重要伝統的建造物群保存地区」に指定されているのだ。打吹山から下りてくると、そこが土蔵群のすぐそばなので観光をしてしまったのだ。


 打吹公園通り
打吹公園通り


街角のお店


ふるさと工芸館

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2008年11月10日

倉吉観光案内所前の駐車場に車を停めて、蔵の街散策に出かけた。

まず倉吉ふるさと工芸館に向かったのだが、駐車場の角の相撲力士・琴桜の銅像がたっていた。琴桜は第53代横綱なのだが、大関を32場所もつとめたあと、32歳でようやく横綱になったというすごい努力の人なのだ。倉吉高校を中退して佐渡ヶ嶽部屋に入門したのである。郷土の横綱として銅像がたてられたわけである。
すぐに派手派手の看板がたつ「ふるさと物産館」に着いた。いや、ちょっと待て、私がめざしていたのは「ふるさと工芸館」である。名前が似ているので間違えてしまったが、この物産館はお土産屋さんである。
この向かいに「まちづくりセンター」という白壁の建物がある。なにか展示してあるのかと思ったら、トイレであった。
この打吹公園通りには白壁の蔵が並んでいるのだが、目指す白壁土蔵群とは少し違うようだ。この通りを北に向かって歩いて行くと、すぐにふるさと工芸館があった。ここでは伝統工芸の倉吉絣の展示販売や機織りの実演をしているのである。でも、私が行ったときは実演はしてなくて、機だけを見ることができた。




玉川沿いの道を行く


玉川には鯉が泳いでいた

 玉川と大蓮寺


ここから
100mほど行くと大蓮寺の標識があった。左の小川に沿った細い道を行くと、銭洗大弁天と書かれた赤い旗がたくさんたっていた。極彩色で飾られた弁天堂があって、その隣が大蓮寺であった。
立派な山門がたっていて、境内に入ると山門とはまったく趣が違うインドの寺院のような本堂がたっていた。このお寺には脇屋義助の墓がある。脇屋義助というのは新田義貞の弟で南朝の武将である。脇屋義助は1342年、中国・四国方面の総大将として四国渡ったが、結局伊予の国府で病死するのだ。それなのにどうして墓がまったく無縁と思われる倉吉にあるのかよくわからない。
もう一つ、ここには淀屋一族の墓もある。
淀屋というのは江戸時代の大阪の豪商で、全国の米相場の基準となる米市を設立したのだ。でも、五代目の淀屋辰五郎のときに「町人の分限を越え、贅沢な生活が目に余る」という理由で闕所処分になってしまう。その闕所になる前にこの倉吉に暖簾分けした店を開き、これが後に大阪の地で再興する基となるのだ。そういう意味で、ここに淀屋の墓があるのは理解できる。
大蓮寺から小川に沿って引き返す。この流れをよく見たら、鯉がたくさん泳いでいた。



 倉吉の土蔵群
打吹公園通りを横断する


土蔵群の道


打吹公園通りを横切ると、その先には白壁の土蔵が並んでいる。倉吉を代表する景観である。この通りには赤瓦1号館があるので、注意しながら歩いていったのだが通り過ぎてしまった。白壁の土蔵の中にあると思っていたのだが、普通の建物で気がつかなかったのだ。でも、中に入ると太い木の梁があって、大正時代の醤油の仕込み蔵だったことがわかる。この中はお土産屋さんである。
蔵を眺めながら行くと、橋を渡って土蔵に入ることができる。これが赤瓦2号館で、入口には木彫りの布袋さんがおかれていた。赤瓦館は11号館まであって、街のあちこちに散らばっているのだ。そして、布袋様と同じような福の神の彫像も街のあちこちのお店で見ることができるのだ。
土蔵の道を東に歩いて行き、土蔵が尽きたところに小さな公園があった。そこには昔の赤いポストがたっていて、「打吹流しひな」という彫像があった。昔はこんな風習があったのかもしれない。
公園から南に下って、元師酒造本本店の角で左折する。ここには大きな福禄寿がたっている。この元帥という名前は、大正天皇が倉吉行幸のときに随行した東郷元帥にちなんだものなのだという。




間近に打吹山が見える


古い町並みを大岳院に向かう


大岳院に着く
 古い町並みから大岳院へ


古い町並みを歩いて大岳寺に向かった。縦格子の京風の建物があるので、よく見たらこれは「オークランド」というヨーロッパ家具のお店であった。さらに歩いて行くと、倉吉大店会の建物があった。これは明治
41年に建てられた旧国立第三銀行倉吉支店の洋風建築で、国の重要文化財にしていされているのだ。
このすぐ先に大岳院がある。
瓦葺きの小さな門をくぐって参道を行くと、大きな楼門がある。境内に入ると右に里見家の墓所があった。里見家というのは、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」のモデルになった里見である。南総というのはもちろん南房州のことで今の千葉県のことである。
里見家は房州の館山城主だったのだが、慶長19年に倉吉に転封されたのである。29歳で逝去した主君のために近臣8人が殉死して、彼らを八賢士と呼んだらしい。後にこれが里見八犬伝のモデルになったのではないかと言われる所以である。私には殉死というのはすごく馬鹿げたことだと思われるのだが、とりあえずこの墓前で手をあわせた。
あとは古い町並みを引き返して、駐車場に戻った。


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