国東半島は独特の仏教文化で満たされている。京都・奈良などの中央の仏教美術とはまったく違うのだ。
国東は古来からの山岳信仰の地であって、それが奈良時代末期になって、寺院の形態をとるようになったらしい。ともかく国東では古代からの山岳信仰と八幡信仰・天台修験道が融合して、独特な仏教文化ができあがったのだ。
今回の九州一周の旅では、国東六郷満山のすべての寺院を訪れるつもりなのだ。
国東半島の中央に聳える両子山から放射状に伸びる谷筋にそってできた集落を六郷といって、そこに散らばる寺院は本山・中山・末山に分類されるのだが、そのすべてを満山といって、国東の寺院の総称が六郷満山なのだ。


 旧千燈寺


旧千燈寺跡への入り口


鳥居をくぐると石畳道になった


奥の院・五輪塔群の分岐に立つ指導標


BACK 豊後高田「昭和の町」

2011103

2005年に九州百名山を登る旅をしたときに、国東の寺巡りをしたのだが、このときは西側だけ巡って終わってしまった。今回はこのとき行けなかった残りの寺院をすべてめぐろうと思う。
昨日は豊後高田から国道213号線を海沿いに走って、「道の駅くにみ」に泊まった。今朝は、道の駅を7時半頃に出発。西に少し引き返して、県道31号線に入る。山に向かって走ってゆくと、千燈寺があった。でも、私が目指すのは「旧千燈寺跡」である。千燈寺は養老2年(718)に開かれた古刹だが、それは旧千燈寺跡にあったのだ。
今の千燈寺から1kmほど走ると左に細い坂道が分かれていて、そこに石の門があった。ここが旧千燈寺の入り口である。石門をくぐって少し行くと「西行戻しの宝篋印塔」があった。りっぱな石塔であった。このまわりには石碑や石仏がたくさん置かれていた。
さらに坂道を上って行くと、石の鳥居があって、その先は石畳道になった。
左に石垣があって、これが西の坊跡、この向かいには「回国供養塔」がたっていた。文明7年(1824)の銘があって、諸国を巡礼した行者が建てたものらしい。
さらに石畳の参道を緩やかに上って行くと、立派な石垣があって石段が設けられている。石段をあがると浮き彫りの仁王石像があった。ここが旧千燈寺の跡である。建物などは一切なくて、平坦な広場となっていた。
さらに石畳を行くと、山王権現跡、講堂跡があって、この先に奥の院・五輪塔を指す指導標がたっていた。




 旧千燈寺奥の院・五輪塔群


奥の院への急な石段


六所権現岩屋

指導標の立つ分岐からは、まず、奥の院に向かった。行く手には急な石段が聳えていて、その上にお堂が見える。これが奥の院である。
木立の間に続く石段を上ってお堂の前に着く。お堂は岩壁に半分埋め込まれるようになっていて、中にはたくさんの石仏が並んでいた。
このお堂の右には六所権現の岩屋があった。
お堂から左に少し行くと、仁聞入寂の地という岩屋があった。この中もたくさんの石仏であった。仁聞というのはこの千燈寺を開山した人である。
ここから少し進むと展望が開けて、すさまじいばかりの岩壁の連なる山々を望むことができた。これは「両子火山群」で峰々で、この中でひときわ大きく聳えているのが千灯岳、標高605mである。
登りたくなってしまった。




 五輪塔群


仁聞国東塔に着いた


千燈石仏

お堂から引き返して急な石段を下り、指導標の立つ分岐から五輪塔群に向かった。

少し行くと「仁聞国東塔」があって、この周りにはたくさんの五輪塔が置かれていた。ここには「弘法堂跡」という案内板もたっていた。
この先にも、夥しい数の五輪塔があった。これが指導標の五輪塔群かとも思ったが、道は続いているので、さらに進むと仁聞の墓地に着いた。このあたりは苔むした五輪塔が累々としていて、国東というのは本当にすごいと思ってしまった。
引き返して行くと、途中に地主権現の石の祠があるのに気がついた。来るときは見逃していた。
ここから少し下ると奥の院との分岐であった。


県道に戻って、さらに山に向かって走って行くと、右にお堂があった。これが千燈石仏のお堂であった。幅
1.5mほどの石にたくさんの仏が線描されていた。阿弥陀来迎図であるらしい。



 岩戸寺


岩戸寺入り口


国東塔と講堂


千燈寺の参拝を終えて、岩戸寺に向かった。坂道を登り切ったところが三叉路で、ここから東に向かう道に入り、少し下ると岩戸寺があった。
石段を上ると、参道の両側に仁王の石像があった。文明10年(1478)の銘があるらしい。
少し行くと右に本堂があったが、これは帰りに参拝することにした。参道をまっすぐに進むと古い石の鳥居があった。これををくぐって、鬱蒼とした樹林の中に続く緩やかな石段を上ると、参道の左に茅葺きのお堂(講堂)が見えてきた。参道の右には大きな岩があって、その上に立派な国東塔がたっている。説明板には国宝とかかれていたが、今は重要文化財であるらしい。
さらに急な石段を上ると巨大な岩壁がそそり立っていて、その下に薬師堂がたっていた。これが奥の院である。中には重要文化財の木造薬師如来像が安置されていた。開基仁聞の作といわれる。
薬師堂の左には六所権現の社があったが、中は荒れていた。薬師堂の右は巨岩がそそり立ち、その岩には穴があいていた。この基部には小さな祠があって、中には子安観音が祀られていた。
引き返して、下まで下ったところで、今の本堂に立ち寄って、参拝した。




 旧大聖寺跡・三十仏


旧大聖寺五輪塔群


三十仏の仁王像


車道に引き返して、東に車を走らせると右の畑の中に大きな樹林が見えて、この下にたくさんの五輪塔が見えた。ここが「旧大聖寺跡」で、南北朝から室町時代にかけての宝篋印塔・各種の五輪塔が
200余りもあるのだ。

ここから来た道を引き返して文殊仙寺に向かった。岩戸寺のすぐ先で左折するのだが、その前に「三十仏」に立ち寄った。三十仏というのは、1ヶ月30日に30の仏を振り分けて信仰するものらしい。
鬱蒼とした杉木立の中に石の鳥居と仁王石像がたっていた。仁王像は文政5年(1822)の銘があるという。


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