熊本城は天下の名城である。
加藤清正が慶長6年(1601)から7年をかけて築いたのだが、明治の西南戦争で本丸中心部は消失してしまったのだ。でも西南戦争で、50日間にも及ぶ篭城に耐えることができ、難攻不落であることは間違いないのだ。
今の天守閣は昭和になって、鉄筋コンクリートで再建されたものなのだが、櫓や石垣は加藤清正が築いた昔のままで、さすがに迫力がある。




 熊本博物館
熊本博物館


旧細川刑部邸


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2006年52

14時、霊巌洞から熊本城に向かった。
熊本城の駐車場で車を停めて、まず「熊本市立博物館」に入った。私はその地方地方の博物館に入るのはかなり好きなのだ。ずいぶんモダンな建物…と思ったら、あの黒川紀章が設計したのであった。
博物館から出ると、長い白壁の塀が続いている。いい雰囲気の道を行くと、この長い塀は「旧細川刑部邸」のものであった。刑部という人は細川家三代忠利の弟である。
公園にSLが展示されているので、立ち寄ってみた。
運転席まで上ってみることができた。私はSLが大好きなのだ。





 熊本城
二の丸御門跡から石段を上る


西大手門を振り返る




頬当御門


熊本城


細川刑部邸から車道を渡ると、大きな石垣がそびえている。その石垣の間に通路が見えた。これが熊本城の入口、西の丸御門跡である。
広い石段を上ると
、広大な芝生が広がっている。ここが二の丸広場である。ここには形のいい巨木がいくつも茂っていた。
芝生の広場からは熊本城の長大な石垣と城郭を眺めることができる。長塀の近くまで行ってみると、芝生の広場はいったん途切れて堀になっていた。堀を見下ろすと、底から石垣が立ち上がっていて、この石垣の上には長大な塀が続いているのだ。すばらしい眺めだ。
石垣の左端に「戌亥櫓」が立っている。平成15年に復元されたものである。
長塀を眺めながら堀に沿って歩いて行くと、天守閣が見えてきた。
堀を渡ると西大手門がある。熊本城には西・南・北の三つの大手門があるのだ。
西大手門をくぐると、とたんに人が多くなった。目の前には石垣の上に天守閣…と思ったら、これは宇土櫓であった。
本丸に入るためには「頬当御門」をくぐるのだが、ここが熊本城入場の料金所になっている。
頬当門の先は枡形になっていて、鍵型にまがってようやく天守閣のそびえる本丸に着いた。
熊本城は加藤清正が築いた城である。この城はまちがいなく名城といっていい。清正の築城術のすべてを傾けた難攻不落の城なのだ。
明治
10年の西南の役で西郷軍に攻められ、天守閣は焼失したものの52日間の篭城に耐え、ここで西郷軍を釘付けにできたからこそ、政府軍は勝利を収めることができたのである。
今の天守閣は昭和30年に鉄筋コンクリートで再建されたものだが、宇土櫓だけは創建当時のもので、国の重要文化財にしていされているのだ。そして石垣は「清正流石組」と呼ばれ独特の弧を描く美しいものである。
ただ、加藤家は大阪夏の陣のあと取り潰しとなり、その後を継いだのが細川家なのだ。

熊本城の観光を終えたら4時半であった。


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