近つ飛鳥博物館→推古天皇陵→二子塚古墳→長科神社→小野妹子の墓→竹内街道→孝徳天皇陵→用明天皇陵→叡福寺(聖徳太子廟)→西方院

近つ飛鳥という地名も初めて知ったのだが、飛鳥から二上山の山並みを西に越えた河内にあるのだ。古代の歴代の天皇陵があることからすると、死者の地だったのではないかと思ってしまう。


 近つ飛鳥博物館
近つ飛鳥博物館


黄金製沓(復元模造)

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2008年11月27日

二上山ふるさと公園の駐車場に戻ったのは
12時半であった。時間が十分あるので、明日予定していた「近つ飛鳥博物館」を観てしまうことにした。
近つ飛鳥というのは、二上山を西に越えた大阪府南河内郡のことで、河内飛鳥ともいう。
近つ飛鳥博物館は「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテーマにした大阪府立の博物館で、展示がすばらしいのだ。レプリカがほとんどなので、館内は写真撮影も許されている。
館内を2時間かけてじっくり観てまわって、外へ出たのは15時近かった。今日はこれでおしまい。明日は近つ飛鳥を散策するつもり。




 推古天皇陵〜二子塚古墳〜小野妹子墓
ちょうど駐車帯があった


推古天皇陵


二子塚古墳


小野妹子の墳


2008
1128

車をどこに停めようかと悩みながら走っていたら、葉室バス停の近くに駐車帯があった。
葉室公園の入口には「近つ飛鳥散策マップ」があった。参考にしようと思ったが縮尺があらくてとても使えない。

散策路を歩いて行くと二上山が間近にそびえていて、そこにあるキレットが竹内街道が通る竹内峠らしい。
散策コースに立つ電柱には太子町の名所がイラストで描かれている。散策路はちゃんと整備されているらしい。
広い車道に出てすぐに右折すると、推古天皇磯長山田陵の上り口があった。見上げると石垣の上に御陵が見える。
推古天皇は蘇我馬子が擁立した我が国初の女帝で、この天皇の摂政が聖徳太子である。推古帝は蘇我稲目の孫で炊屋姫といい、敏達天皇の皇后だったのだ。この御陵には敏達天皇と炊屋姫の間に生まれた竹田皇子も一緒に葬られている。推古天皇としてはこの竹田皇子に天皇位を継がせたかったのだが、夭折してしまったのだ。
この御陵から少し行くと二子塚古墳がある。7世紀中頃の古墳だが、二つの墳丘を連結した「双円墳」という特異な形式なのだ。墳丘に上ると二つの盛り上がりがあって、片方は大きく窪んでいた。
二子塚古墳から15分ほど東に行くと、すごく長い石段の前に着く。これは伊弉諾尊の子、級長津彦命ら八柱を祀る長科神社なのだ。広い境内の奥にりっぱな社殿が建っていた。
ここからさらに急な石段を登ると「小野妹子之墓」に着く。紅葉がすばらしくきれいであった。
小野妹子は聖徳太子が派遣した遣隋使として有名で、隋には
3度も渡っているのだ。
聖徳太子といえば、隋の煬帝が激怒したという「日出處天子致書日沒處天子無恙…」という国書を送ったことが有名なのだが、この国書を持参したのが小野妹子といわれる。言うまでもないことだが、小野妹子という名は女性みたいだが、れっきとした男である。



 竹内街道〜孝徳天皇陵〜用明天皇陵
散策路の指導標


竹内街道の民家


孝徳天皇陵


科長神社から竹内街道に向かう。集落の中の小さな観音堂の前を過ぎて、大きなため池をみて、国道
166号線を渡ったすぐ先に石畳道がある。これが竹内街道である。竹内街道は、大陸からの使節を迎えるため、推古天皇の命によって造られた難波から飛鳥の都に至る日本最古の官道なのだ。
石畳道を緩やかに上って行くと「竹内街道歴史資料館」がある。中に入ったが、私にはあまりおもしろくなかった。
資料館から竹内街道を引き返すと、右に孝徳天皇陵がある。元号をたてるようになったのはこの天皇から、それが「大化」である。孝徳天皇のもとで大化改新が行なわれたのだが、この時の皇太子が中大兄皇子で、実権は中大兄皇子が握っていたらしい。
孝徳天皇は難波に都を定めたのだが、中大兄皇子がこれに反対すると、臣下はみんな中大兄皇子について飛鳥に帰ってしまって、天皇だけが取り残されてしまうのだ。失意の内に翌年死んでししまうという、けっこう悲劇の天皇なのだ。
ここから10分ほどで、用明天皇陵に着く。用明天皇は聖徳太子の父で、即位1年半で亡くなってしまうのだ。このあと、蘇我氏と物部氏の権力争いが勃発して全面戦争となるのだ。



 叡福寺(聖徳太子廟)〜西方院
叡福寺仁王門(南大門)


境内の多宝塔


聖徳太子廟


西方院への寺門


用明天皇陵から次に目指したのが「叡n宦vである。叡福寺には聖徳太子の廟があるので、是非とも立ち寄りたいところなのだ。

叡福寺の前に着くと、石段の上に赤い仁王門が見えた。門の両側に立つ仁王像は鎌倉時代のものかと思うりっぱなものであった。
仁王門をくぐって境内に入ると、すごく広い。

真っ正面に聖徳太子廟があって、そこに伸びる参道の左には伽藍が一列に並んでいる。
多宝塔は承応元年(1652)建立、その次の金堂には本尊の如意輪観音坐像が安置されている。その次に建つ聖霊殿は重要文化財で、聖徳太子16歳植髪等身像と南無太子2歳像が祀られている。
正面にある聖徳太子廟は自然の地形を生かした円墳で、その前に桧皮葺きの唐破風と瓦葺の切妻屋根が重なった建物がある。ここが墳墓の羨道の入口なのだ。
叡福寺の仁王門を出てると真っ正面に赤い鳥居が見える。これが最後に目指す西方院である。さっき通ってきた国道166号線を横切ってから太井川を渡る。手すりが設けられた長い石段を登ると西方院境内である。山門の手前、右には銀杏の巨木がそびえ立っていて、それが真っ黄色に色づいていた。
西方院は聖徳太子の侍女3人が暮らした寺だという。聖徳太子の死後、月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)の3人の侍女が尼になって太子の菩提を弔ったのだ。たしかに、ここから振り返ると真っ正面に聖徳太子廟のある叡福寺を見ることができて、3人の尼がここで太子の菩提を弔ったということがよくわかる。
西方院の境内は狭いのだが、庭としてきれいに整備されている。本堂には聖徳太子の作という阿弥陀如来と3人の尼の像が安置されているらしいのだが、中に入ることはしなかった。
あとは車に戻るだけである。車に戻る途中で、敏達天皇陵に寄り道することもできるのだが、面倒になってやめてしまった。


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