BACK 小京都中村と四万十川
4月3日
温泉でのんびりしてから、中津明神に向かう。途中で、二つの札所に寄ったりしていたら高知の近くにきたら5時近くなってしまった。でも、せっかくなので桂浜に立ち寄ることにした。
よさこい節に「月の名所は桂浜…」と唄われている名勝地である。遍路をしたときには時間がたりなくて立ち寄れなかった。私の目的は、桂浜にたつ坂本竜馬の銅像を見たいだけなのだ。
桂浜に向かって九十九折れの道を下って行くと、カーブのところに石碑がたっている。その前に駐車スペースがあるので、ここに車を停めた。(桂浜の駐車場は有料なのだ。)
この石碑は横山黄木の詩碑である。横山黄木は板垣退助の立志社にいた自由民権運動家である。石碑に刻まれた詩は漢詩なのだが、なんと書いてあるのかよくわからなかった。
この詩碑から少し車道を引き返すと浦戸城跡の碑がある。浦戸城は四国を平定した長曾我部氏の本城だったのだ。しかし、長曾我部は関が原の合戦で西軍についたために領地を召し上げられてしまい、その後に土佐の領主になったのが山内一豊なのだ。一豊はこの浦戸城に一旦入城するが、高知に新たな城を築いために浦戸城は廃されてしまうのだ。こんな山の上では領土経営ができないのだから仕方がない。
浦戸城碑の前から遊歩道が桂浜に続いている。階段の道を下って行くと15分ほどで桂浜に着いた。
桂浜の砂浜をのんびり歩いて行く。だが、坂本竜馬の銅像が見えない。この砂浜の一郭にたっていたはずなのだが…。指導標を見つけてこれに従って歩いて行くと、急な階段を登って丘の上に向かう。そこに坂本竜馬の銅像がたっていた。大きな銅像である。
坂本竜馬というのは幕末の志士であるが、彼を有名にしたのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」という小説である。竜馬というのはこの小説が出るまでは、あまり注目されていなかったのだ。
坂本竜馬は、それまでは犬猿の仲だった薩摩と長州を薩長同盟に導き、これによって倒幕を可能にした。明治の五箇条の御誓文にも影響をあたえたという「船中八策」や、株式会社方式による商社(亀山社中)など、竜馬の先進的な考えは同時代の勤皇の志士に中では群を抜いている。
竜馬は新しいもの好きで、この銅像も着物姿なのにブーツを履いているのだ。右手を懐に入れて、遥か太平洋を望む姿はなにかしら男の夢のようなものを感じてしまうのだ。
竜馬の銅像を見たので桂浜にきた目的は達してしまったのだが、もう少し散策を続ける。
この丘の周辺にはたくさんの石碑がたっている。吉井勇の詩碑、旧制高知高校歌碑、豪気節の歌碑などだ。
旧制高知高校の歌碑には歌の一番が刻まれている
自由の空に寄す南溟の
永久なる浪の響
常夏の地や建依別の
渥き血潮は流れて尽きず
さすが自由民権の発祥の地、高知の歌であるず
豪気節の石碑には旧制高校の学生のリリーフと
この浜よする大涛は カルフォルニアの 岸を打つ
と書かれていた。豪気節というだけあって気分は壮大だ。
丘から下って桂浜の砂浜を竜王岬に向かう。黒潮が打ち寄せる浜辺の散策はけっこう楽しいのだ。竜王岬へは橋を渡ってから急な階段を登る。頂きには鮮やかな赤の竜王宮の祠があった。ここからは桂浜が一望でき、眼下の絶壁には波が打ち寄せていた。
さらに石段を登って竜王岬のピークに立つと岬の西に伸びる長浜海岸が見渡せた、その先は普通の道になって浦戸灯台に着く。
この灯台は、明治16年創建当時は桂浜の反対側の岬、龍頭岬にたっていたのだが、昭和46年にここに移築されたのだそうだ。
ここから少し舗装道路を歩いて坂本竜馬記念館に向かう。記念館の前の広場の入口に高浜虚子の句碑があった。
海底に 珊瑚花咲く 鯊(ハゼ)を釣る
そしてこの高台はかって浦戸城の天守閣があったところである。石碑が横にたつ階段を登って樹林の山頂に上がると、薄暗い中に祠があった。こここに天守閣のあったのだ。
竜馬記念館に入ってみたかったが、時間はもう6時になっていて閉館してしまっている。入口の前にあった竜馬の銅像のミニチュアの写真を撮って、車を置いた広場に引き返した。
あたりはもう薄暗くなってきていて、桂浜の散策はこれでおしまいである。
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横山黄木の詩碑
浦戸城跡碑
桂浜の遊歩道を行く
坂本竜馬の銅像
竜王岬の竜王宮
さらに石段を登ってピークへ
浦戸灯台
坂本竜馬記念館
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