岩国といったら錦帯橋しか思い浮かばないのいだが、ここは江戸時代吉川家の居城だったところで、周辺の散策はけっこう楽しいのだ。
錦帯橋からは山の上に岩国城を見ることができるし、すぐ傍には武家屋敷や吉川家歴代の墓所もあるのだ。
錦帯橋→香川家長屋門→吉香公園→吉川家墓所→旧加田家住宅→ロープウェイ→岩国城→白山比盗_社→岩国徴古館→吉川資料館→佐々木小次郎像→錦帯橋
2008年5月12日



錦帯橋を渡る


錦川


橋から岩国城を見上げる

 錦帯橋


BACK 三倉山

今日はこれから銭壺山に登るのだが時間に余裕があるので、途中、岩国の錦帯橋によって行くことにした。
錦帯橋を渡るのは有料なのだ。セット券を買って、今回はロープウェイで岩国城まで登るつもりなのだ。
錦帯橋は日本三名橋の一つだという。「三名○」というのはいろいろあって、いったい何をさすのかわからないことが多いのだが、この三名橋は錦帯橋の他に、山梨県大月市の「猿橋」、富山県宇奈月町の黒部川にかかる「愛本はね橋」である。
ちなみに山名(霊)山といったら富士山・白山・立山である。
錦帯橋は南側から渡った。行く手の山の上には岩国城の天守が見えて、すばらしい眺めである。
錦帯橋は錦川に架かる木造五連の太鼓橋で延宝元年(1673)に3代藩主吉川広嘉によって創建されたものなのだ。増水時にも流されないように橋脚を石組みにして、本体の木組みに工夫を凝らした独創的な橋である。でも、276年間風雪に耐えたこの橋は昭和25年(1950)に台風の洪水で流されてしまって、3年後に再建されたのだ。現在の橋は平成13年から3年間かけて江戸時代の工法を用いて架け替えたものである。
五連の太鼓橋はすごい登り下りを繰り返さなければいけないのだが、急な登りの箇所は階段になっているので滑る心配はないのだ。


 吉香公園
吉川広嘉の銅像


吉香公園


橋を渡り終えて、真っ直ぐに歩いて行くと正面に銅像が見えてくる。上下姿のこの銅像は錦帯橋を架けた吉川広嘉である。
この銅像の右に長屋門があるので見に行った。山口県文化財に指定された「香川家長屋門」である。香川家は芸州(広島県)八木城主であったが、吉川家が岩国に移封されたときに家老に取り立てられたのだ。
話しは脱線してしまうのだが、吉川家は中国の覇者毛利家に属していたのだが、関ケ原の合戦において徳川に内通した功績で一家をたてることのなったのである。
吉川広家は輝元に徳川に味方するように提言したのだが、毛利輝元は西軍の総大将になってしまう。あくまでも徳川の勝利を確信した広家は関ケ原においても黒田長政を通じて家康に内通して、陣も毛利軍の前に敷いて出陣できないようにしたのだ。
関ケ原の西軍敗戦によって毛利家は所領を召し上げられ、周防・長門の二カ国を吉川広家に与えられることになったのだが、広家が必死に弁護して毛利家は周防・長門の二ヶ国の安堵が許されたのである。
でも、毛利家にとっては中国地方に10カ国を領していたのが2ヶ国に減らされた恨みは深くて、幕末において倒幕の原動力になるのである。
長屋門から香川公園に入る。きれいに整備された公園で、かつてここは藩主や上級武士の居住治だったのである。公園の真ん中には大きな噴水があって、その横には石垣が残っていた。



8代藩主吉川経忠と正室喬松院の墓


6代藩主の3女益姫の墓、こんな小さなお墓もあるのだ

 吉川家墓所

公園の左の吉川家墓所があるので寄ってみた。墓所にはたくさんの五輪塔があって、その一つ一つに誰の墓か標識があるのだが、わけがわからなくなってしまった。
墓所の中の石段を上って九代藩主吉川経幹の墓所に向かう。ちゃんとした門があって、それをくぐると正面に四角い墓石がある。私がめざす「誰が袖の手水鉢」はこの構内の片隅にひっそりと置かれていた。この手水鉢は小堀遠州が作ったといわれ、その形が着物の袖に似ていることからこう呼ばれているのである。
樹林の中の平坦な遊歩道を少し行くと初代藩主吉川広家の墓がある。私がここで見たいのは「みみずくの手水鉢」である。この手水鉢は広島藩家老の上田宗箇から広家に贈られたものである。広家と宗箇は共に千利休に師事し交流があったのである。四角い手水鉢で、その正面にみみずくが浮き彫りされていた。私には狐に見えてしまったのだが。
遊歩道を下って旧加田家住宅の前に着いた。18世紀中頃の中級武家屋敷として当時のままの姿を残していて、国の重要文化財にしていされている。是非、見たかったのだが今日は休館であった。


岩国城
ロープウェイ山上駅に着いた


山上駅から天守閣に向かう


ロープウェイで岩国城に上がった。ロープウェイからは城の堀が見え、錦帯橋も見ることができた。

山頂駅から遊歩道を天守閣に向かう。吉川広家は傍流であったため藩とは認められず、あくまでも岩国領主であった。藩主でない吉川家に天守閣を持つ城は許されないはずなのだが、関ケ原の功績で家康から特別に築城が認められたのである。参勤交代もしたというからほとんど大名の扱いだったのだ。
高く聳える石垣を見ながら歩いて行くと天守閣の前に着く。ただし、この天守閣は昭和37年に竣工したのものである。城の中には刀剣や鎧兜が展示されていて、最上階からは錦川と錦帯橋を一望することができる。大満足の展望である。
城の北側には元の天守台の石垣が残っている。本来、城はこの上に再建されるべきなのだが、錦帯橋からの眺めを考慮して元の位置よりも南に建てられたのだという。確かに、錦帯橋とこの城を一緒に見るのはすごく絵になっている。
山上を周遊してロープウェイ駅に戻った。駅の前には大きな櫓時計がたっている。からくり時計で一定時間毎にからくりが動くようなのだが、それを待っている時間は惜しいので、すぐにロープウェイで下った。



吉香神社の参道


吉香神社の神門

吉香神社

下のロープウェイ駅から堀の前に行く。ここからは錦雲閣の眺めがすばらしい。錦雲閣は江戸時代に南矢倉があったところで、明治になってその跡に吉香神社の絵馬堂として建てられたものなのだ。絵馬堂にしてはずいぶん重厚な建物である。
堀に架かる橋を渡って神社の参道を歩いて行く。
吉香神社は吉川家歴代藩主の神霊を祀る神社で、社殿は国の重要文化財に指定されているのだ。享保13年(1728)の建造で、鳥居、神門、拝殿、本殿が一直線に並んでいる。
神社から東に向かって堀を渡って岩国徴古館の前に着く。ここも月曜日休館である。
牡丹園の中を歩いて車道に出て堀に沿って歩いて行くと、昌明館付属屋と門があった。ここは吉川資料館の入口でもある。


佐々木小次郎
佐々木小次郎の銅像


佐々木小次郎


錦川の河畔を歩いて行く

この先、道が右にカーブするところには佐々木小次郎の銅像がたっていた。
佐々木小次郎というのはけっこう謎の剣豪で、姓が佐々木であったかも確かでないし、出自もはっきりしないのだ。越前・長州・豊前の諸説があって、今のところ豊前説が有力らしい。ただ、吉川英治の小説「宮本武蔵」に現れるが佐々木小次郎が有名すぎて、その中で「祖先以来、岩国の住、姓は佐々木といい、名を小次郎と親からもらい、また剣名を厳流とも呼ぶ人間は、かくいう私である」と自己紹介させているので、この岩国が出身だと信じている人は多いのだ。
この銅像は吉川英治の小説に従ってたてられているのだが、銅像の上には岩国城が見えて、すごく絵になっている。
ここから錦川の河畔に出て、前方に錦帯橋を眺めながら歩いて行った。錦帯橋を下から眺めると、その木組みがすごい。橋の下をくぐったところには「厳流ゆかりの柳」があった。
これも吉川英治の小説の話しなのだが、小次郎はこのあたりで柳と燕を相手に剣の工夫をして「つばめ返し」の秘剣をあみだしたというのだ。その柳がこれだというのだ。ウソだろうと思ってしまうのだが、つい写真を撮ってしまった。
錦帯橋をもう一度渡って車の前に戻った。



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