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今井まちなみセンター「華甍」 | まちなみセンター華甍 まちなみセンター華甍 中尊坊通 |
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BACK 飛鳥路2 謎の石造物めぐり 2008年11月25日 |
北尊坊通 | 吉村家 山尾家住宅 |
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中町筋 | 角に蓮妙寺がある 今井景観支援センター 上田家住宅 |
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本町筋 西口門跡 | まちや館 今西家 |
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上田家から南に下って中町筋を横切ると、次の通りが本町筋である。これを西に行くと「今井まちや館」がある。 本町筋を西にしばらく行くと枡形があって、その先に「今西家住宅」がある。 今西家は、十市氏の一族の川井権兵衛清水が永禄9年(1566)に当地に移住したもので、三代目から今西の姓を名乗るようになったのだ。代々今井町の惣年寄筆頭を勤め、領主・代官の町方支配の一翼を担い、自治権をゆだねられていたのだ。建物は、棟札・鬼瓦から慶安3年(1650)の建設が明らかで、民家というよりは城郭を思わせる造りで、これを「八ツ棟造り」という。 今西家から西に少しだけ行くと濠に出る。ここは二口門跡である。 環濠の外に出て、濠に沿って回り込んで行くと、神社とお寺が見えてくる。旧永福寺観音堂と春日神社なのだ。 永福寺は延宝9年(1681)から天台宗多武峰の末寺になって、明治初年まで存続したらしい。現在残っている観音堂は棟札から慶長18年(1613)に上棟したことがわかっている。 |
御堂筋 | 細い路地を通って御堂筋へ 豊田家 中橋家 |
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春日神社境内から北に延びる細い路地を通って御堂筋にでる。御堂筋を東に歩いて行くと豊田家住宅に着いた。 豊田家は「西ノ木屋」の屋号を持ち、福井藩の蔵元も勤めた有力な商家だったのだ。材木商であったことを表すように、正面上部の壁には「木」の文字が描かれている。先の修理の際に多くの鬼瓦に寛文2年(1662)の刻銘が見られたことから、建設年代があきらかになっている。なお、昭和10年頃までは今井宗久ゆかりの茶室があったという。今井宗久は安土桃山時代の堺の商人であり茶人で、千利休・津田宗及とともに天下三宗匠と称せられた人である。 豊田家からさらに東に向かって歩くと、称念寺に着く。 もともと今井町はこの寺の境内地に発達した寺内町なのだ。本堂は比較的新しいものなのだが、いかにも浄土真宗本願寺派の寺院らしい大きな入母屋造り本瓦葺きである。明治10年、天皇畝傍稜御幸のときには行在所となっていて、その大きな石標がたっていた。 再び、御堂筋に戻ると今井まちづくりセンター「夢ら咲 長屋」がある。老朽家屋を譲り受けて再生したもので、町並み保存会の活動拠点になっている。 このすぐ隣が中橋家である。 中橋家は屋号を「米彦」といって、江戸時代には米屋を営んでいたのだ。18世紀末に建てられたとみられる小規模な商家であるが、19世紀初期に正面のみ「つし二階」を増設していて、平屋建てから二階建てへ移行する過程を知ることができる民家なのだ。 |
中尊坊通 | 河合家 高木家 |
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御堂筋を東に歩いて行き、鍵形に曲がると中坊尊通で、ここに建つのが「河合家」である。 河合家は屋号を「上品寺屋」といって、今も造り酒屋なのだが、明和9年(1772)にはすでに酒造業を営んでいたらしい。家屋は18世紀中頃に建てられたようで、正面に太い格子をを入れて、二階は塗籠になっている。 河合家の隣が高木家である。屋号は「大東の四条屋」といって、酒造業を営んでいたのだ。建物は、切り妻造り本瓦葺き平入り二階建てで、前面の格子は木割が細くて吹き寄せのところもあって、いかにも幕末期の家らしい。幕末に二階の発達した今井町上層民家の好例とされる家である。 ここから少し東に行くと濠割りにぶつかる。これは今朝、最初に歩いた道で、南に下って行くと車を停めた華甍に戻ることができる。私は引き続き、散策を続ける。 目指すのは大和三山の登山である。 |
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