重要伝統的建築物群

まちなみセンター華甍→北尊坊通(吉村家→三宝庵→山尾家)→中町筋(今井景観支援センター→旧米谷家→音村家→上田家)→本町筋(今井まちや館→今西家)→西口門跡→春日神社→旧永福寺観音堂→御堂筋(豊田家→称念寺→夢ら咲長屋中橋家)→中尊坊通(河合家→高木家)→華瓦

今井町は、中世末期に寺内町として成立し、江戸中期までに南大和地方に商業の中心地として発展してきた町で、旧環濠で囲まれた保存地区は優れた意匠の町屋を中心に重厚な歴史的市街地となっているのだ。


 今井まちなみセンター「華甍」
まちなみセンター華甍


まちなみセンター華甍


中尊坊通


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20081125

今日は「重要伝統的建築物群保存地区」の今井町並み散策から始めるのだ。
今井町は、古くは興福寺の荘園で、中世の環濠集落を母体として発展した町なのだ。室町後期には一向宗の道場、後の称念寺ができて、何回か焼き払われたりしたのだが、文禄検地(1561)頃には周囲に三間の堀、土居を巡らして、入り口には九ヶ所の門を構えた武装宗教都市となっている。
天正3年(1575)、織田信長に降伏した後は自治都市として南大和最大の商業都市として発展したのだ。
現在も多くの伝統的な様式をもつ町屋が軒を並べていて、平成5年に「重要伝統的建築物群保存地区」に選定されたのである。私は古い町並みが大好きなので、今日は時間をかけて、じっくりこの町並みを散策するつもりである。
車をどこに停めるべきか迷ってしまった。今井まちなみセンターの駐車場に停めるつもりだったのだが、駐車場は閉まっていたのだ。今日は勤労感謝の日の振り替え休日で、閉館日なのだ。
あたりをうろうろして駐車できるところを探したが、結局見つからなくて、町並みセンターに戻ってきた。そうしたら駐車場入り口のゲートは鍵がかかっていないくて開閉することに気がついた。自由に入ることができるのだ。安心して、散策に出かけるできる。

今井まちなみ交流センター「華甍」は外から見るしかないのだが、和洋折衷の堂々とした建物で、明治36(1903)に高市郡教育会館として建てられたものなのだ。のちに今井町役場になったりしたのだが、今は今井町の資料を展示しているのだ。



 北尊坊通
吉村家


山尾家住宅


華甍から散策を開始する。
今井の町並みは、ほぼ碁盤の目のようになっているので、まず一番北にある「北尊坊通」に向かった。
川に沿って北上する。でも、これは川ではなくて今井町の環濠なのだ。北尊坊通に入って、西に歩いて行くと「吉村家」があった。
吉村家は屋号が「壺八」で、手広く肥料商を営んでいた。主屋は文化2年(1805)の再建だが、他の建物は50年ほど遡るらしい。
ここから少し東に引き返すと「三宝庵」という看板の下がる板塀があって、その先に「山尾家住宅」がある。
山尾家は十市郡新堂村から移住したことから、屋号は「新堂屋」で、幕末には町年寄を勤めた大商家なのだ。主家は18世紀後半の建設とみられている。



 中町筋
角に蓮妙寺がある


今井景観支援センター


上田家住宅


北尊坊通から南に下ると、角に蓮妙寺がある。この通りが大工筋なのだが、この筋には入らずに、もう一本下ると中町筋がある。この中町筋を西に向かうと「今井景観支援センター」がある。中に入って見ると、町屋造りの説明パネルが展示しあって、けっこう勉強になった。
この支援センターの隣が「旧米谷家住宅」である。米谷家は屋号を「米忠」といって、金具商を営んでいたのだ。この家屋は昭和31年に国有となり、昭和51年に解体工事を行なって、発見資料に基づいて当初の姿に復元したのだ。この家屋は今井町には珍しい構造で、商家というよりは農家風の建物である。
細い路地を挟んで、隣に建つのが音村家住宅である。屋号は「細丸」で、金物問屋を営んみ、幕末には相当繁盛していたらしい。主屋は17世紀後半の建設で、正面上部の屋根の「煙出し」は棟に直角に取り付けられた古い手法となっている。
音村家からさらに西に歩いて、二つ目の路地を右に入ると大工筋の手前に「上田家住宅」がある。
当家は葛下郡片岡城主片岡新助の子孫で、元亀元年(1570)にこの地に移住してきたという。今西家・尾崎家とともに惣年寄を勤めていた名家で、屋号は「壺屋」。江戸時代初期には酒造業も営んでいたことから、今も鬼瓦に「壺」の模様をあしらっているのだ。主屋の「つし二階」に打たれた祈祷札に延享元年(1744)と記されていることから、この頃の建築と思われている。



 本町筋 西口門跡
まちや館


今西家


上田家から南に下って中町筋を横切ると、次の通りが本町筋である。これを西に行くと「今井まちや館」がある。
本町筋を西にしばらく行くと枡形があって、その先に「今西家住宅」がある。
今西家は、十市氏の一族の川井権兵衛清水が永禄9年(1566)に当地に移住したもので、三代目から今西の姓を名乗るようになったのだ。代々今井町の惣年寄筆頭を勤め、領主・代官の町方支配の一翼を担い、自治権をゆだねられていたのだ。建物は、棟札・鬼瓦から慶安3年(1650)の建設が明らかで、民家というよりは城郭を思わせる造りで、これを「八ツ棟造り」という。
今西家から西に少しだけ行くと濠に出る。ここは二口門跡である。
環濠の外に出て、濠に沿って回り込んで行くと、神社とお寺が見えてくる。旧永福寺観音堂と春日神社なのだ。
永福寺は延宝9年(1681)から天台宗多武峰の末寺になって、明治初年まで存続したらしい。現在残っている観音堂は棟札から慶長18年(1613)に上棟したことがわかっている。


 御堂筋
細い路地を通って御堂筋へ


豊田家


中橋家

春日神社境内から北に延びる細い路地を通って御堂筋にでる。御堂筋を東に歩いて行くと豊田家住宅に着いた。
豊田家は「西ノ木屋」の屋号を持ち、福井藩の蔵元も勤めた有力な商家だったのだ。材木商であったことを表すように、正面上部の壁には「木」の文字が描かれている。先の修理の際に多くの鬼瓦に寛文2年(1662)の刻銘が見られたことから、建設年代があきらかになっている。なお、昭和10年頃までは今井宗久ゆかりの茶室があったという。今井宗久は安土桃山時代の堺の商人であり茶人で、千利休・津田宗及とともに天下三宗匠と称せられた人である。
豊田家からさらに東に向かって歩くと、称念寺に着く。
もともと今井町はこの寺の境内地に発達した寺内町なのだ。本堂は比較的新しいものなのだが、いかにも浄土真宗本願寺派の寺院らしい大きな入母屋造り本瓦葺きである。明治10年、天皇畝傍稜御幸のときには行在所となっていて、その大きな石標がたっていた。
再び、御堂筋に戻ると今井まちづくりセンター「夢ら咲 長屋」がある。老朽家屋を譲り受けて再生したもので、町並み保存会の活動拠点になっている。
このすぐ隣が中橋家である。
中橋家は屋号を「米彦」といって、江戸時代には米屋を営んでいたのだ。18世紀末に建てられたとみられる小規模な商家であるが、19世紀初期に正面のみ「つし二階」を増設していて、平屋建てから二階建てへ移行する過程を知ることができる民家なのだ。


 中尊坊通
河合家


高木家

御堂筋を東に歩いて行き、鍵形に曲がると中坊尊通で、ここに建つのが「河合家」である。
河合家は屋号を「上品寺屋」といって、今も造り酒屋なのだが、明和9年(1772)にはすでに酒造業を営んでいたらしい。家屋は18世紀中頃に建てられたようで、正面に太い格子をを入れて、二階は塗籠になっている。
河合家の隣が高木家である。屋号は「大東の四条屋」といって、酒造業を営んでいたのだ。建物は、切り妻造り本瓦葺き平入り二階建てで、前面の格子は木割が細くて吹き寄せのところもあって、いかにも幕末期の家らしい。幕末に二階の発達した今井町上層民家の好例とされる家である。
ここから少し東に行くと濠割りにぶつかる。これは今朝、最初に歩いた道で、南に下って行くと車を停めた華甍に戻ることができる。私は引き続き、散策を続ける。
目指すのは大和三山の登山である。


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