常燈の鼻→平戸和蘭商館跡→オランダ井戸→オランダ塀→日蘭親交記念碑→平戸観光資料館→ザビエル記念碑→三浦按針の墓→展望台→お部屋の坂→松浦史料博物館→六角井戸→大蘇鉄→ザビエル記念聖堂→光明寺→寺院と教会の見える風景→オランダ橋→平戸城→平戸港交流広場

平戸は15世紀に海外貿易港として栄えた町である。街のあちこちには、かっての南蛮文化をしのぶ跡があって、とくにすばらしいのは「寺院と教会の見える風景」である。


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2006年12月17日

今日はこれから平戸の観光をするのだ。
平戸は15世紀の初めにはオランダ商館が開かれ、海外貿易港として栄えた街なのだ。街のあちこちにそうした南蛮風の史跡が残っているのだ。
昔、二十歳の頃に平戸を訪れたことがある。国鉄のDESCOVER JAPNのキャンペーンが行われているときで、そのポスターに寺院と教会の尖塔が一緒に映ってる写真があったのだ。それがひどくエキゾチックで、正月休みに均一周遊券を使って出かけたのだ。あれから30年以上も過ぎてしまったが、昔を懐かしんでもう一度平戸を巡ろうと思う。
平戸港は東に開けていて、この湾に沿って半周しようと思っている。平戸港の北にある常燈の鼻から歩き始めた。
湾を挟んだ南には平戸城の天守閣が聳えている。その城山の前を船が進んで行く。いい眺めである。
常燈の鼻というのは港の北に突き出た岬で、そこに常夜灯がぽつんとたっているのだ。もちろん最近たてられたものである。ここから湾に沿って南に歩いて行くと、平戸和蘭商館跡があった。小さな公園になっていて、石碑がたっている。ここに和蘭商館が開かれたのは慶長14年(1609)のことで、その後鎖国政策で長崎の出島に移転するまでの33年間、ここで貿易が行われたのだ。近くには和蘭井戸や和蘭埠頭があって、西の都と呼ばれるほど繁栄していたのだ。
ここで海岸から離れて北に向かう坂道を上って行く。この道に沿ってオランダ塀が続く。砂石に貝殻や石灰が混ぜられて、塀の上は屋根型になっている。
坂道を上って行くと「日蘭親交記念碑」があった。日蘭交流発祥地として大正14年にたてられてものである。この石碑のすぐ上に「平戸観光資料館」がある。
この資料館の見ものは「じゃがたら文」である。最近読んだ中央公論社の日本の歴史で詳しく述べられていて、すごく興味があったのだ。鎖国令によって、南蛮人と結婚した日本人・その子女は国外追放となってしまうのだが、ジャカルタに追放された娘が母に送った手紙なのだ。普通の手紙もあるが、パッチワークのように端布をつなぎ合わせたものに「日本恋しや」とかかれたものが有名である。鎖国令によって、海外の住む日本人は帰国できなくなった、その悲劇がこのジャガタラ文でわかるのだ。
坂道をさらに上って行くと崎方公園である。ここはヒラドツツジの名所らしいのだが、12月の訪問では花の面影は尋ねようもない。
まずザビエル記念碑があった。フランシスコ・ザビエルは天文18年(1549)に来日したのだが、その翌年の1ヶ月間、平戸で布教活動をしたのだ。その記念碑である。
その先には三浦按針の墓がある。三浦按針というのは日本に最初に来た英国人で本名はウイリアム・アダムスというのだ。彼は慶長5年(1600)に豊後に漂着したのだが、徳川家康の外交顧問として活躍して、その後、平戸のイギリス商館長コックスの元で働き、元和6年(1629)にこの平戸で没したのである。
公園のピークには展望台があったので上ってみた。平戸港が一望できた。
公園からは「お部屋の坂」を下った。長い石段の道で、この坂の途中にはお部屋様(側室)の屋敷があったことから、こう呼ばれているのだ。いまは、お部屋様の屋敷跡が小さな公園になって、庭園がある。
坂を下って道を右折すると松浦史料博物館である。この建物は旧藩主松浦氏の本邸だったのものを、今は博物館としているのだ。高い石垣に囲まれて門も城門のようにがっしりとしている。館内には松浦家の家宝が展示されているのだが、入館しなかった。
博物館から南に下る道はきれいに整備されていて、銅像が何体かたっている。その中にはフランシスコザビエルや松浦氏もあるのだ。
道を西に歩いて行くと「六角井戸」がある。明の海商王直は松浦氏の優遇を得て、この平戸を根拠地として貿易を行ったため、たくさんの明人がここの住み、六角井戸はそのときに造られたのだ。数人が同時に水が汲めるように六角になっているのだそうだ。王直というのは海商というよりは大海賊だったらしいのだが…。
六角井戸のすぐ先には、樹齢400年という大ソテツが茂っていた。江戸初期の貿易商川崎屋の庭に茂っていたのだという。
石段のある坂道をザビエル記念聖堂に向かう。
天文19年(1550)に平戸で布教活動をしたフランシスコ・ザビエルを記念して、昭和6年にたてられた教会である。緑色の尖塔が高く聳えている。教会の前の広場には殉教者慰霊碑があった。ザビエル来島の翌年には日本最初の教会が建立されたが、その後、切支丹禁令によって多くの信者が迫害に遭うのだ。平戸の殉教者は400人を越えるのだそうで、その慰霊碑がこれなのだ。広場にはザビエルの像もあったが、私はきれいなマリア像に見とれてしまった。
教会の建物の左脇を通って、少し行くと松浦宗陽公の墓がある。この人は中国・オランダ・イギリスの貿易によって平戸が最も栄えたときの28代藩主なのだ。
両脇に常夜灯がたてられた急な石段を下って行く。
坂の途中には光明寺がある。有名な「寺院と教会の見える風景」は光明寺とザビエル記念聖堂による景色なのだ。せっかくなので光明寺を参拝してみた。境内には山門・鐘堂・経堂があって、19世紀中頃に平戸の大工によってつくらたものである。
このお寺から少し坂道を下って振り返ると、経堂や鐘堂の間に教会の尖塔がみえる「寺院と教会が見える風景」であった。平戸を代表する景色である。何枚も写真を撮ってしまった。
ここから市街地を通って平戸城に向かう。平戸城の前にはお堀のような鏡川があって、そこに石橋がかかっている。幸橋というのだが、元禄15年(1702)に築かれたアーチ型の石橋で、オランダ商館が築造した石造り倉庫の技法によって造られたことからオランダ橋とも呼ばれるのだ。
平戸城の天守閣に向かって上って行く。この城は明治維新後に解体されてしまって、昔のままの建物は北虎口門と狸櫓だけけなのだ。天守閣は昭和37年、本丸御殿は昭和54年に復元されたものである。二の丸広場には亀岡神社があって、中山愛子の銅像がたっていた。中山愛子というのは明治天皇の祖母にあたる人で、平戸出身なのだ。
あとは、常燈の鼻に引き返すだけである。
港に沿って歩いて行くと、平戸港交流広場があった。ここにはジャガタラ娘の銅像がたち、オランダ船の模型が置かれていた。
振り返ると平戸城の眺めがすばらしい。


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常燈の鼻


オランダ井戸


オランダ塀の坂を上る


平戸観光資料館


ザビエル記念碑


松浦史料博物館


大蘇鉄


ザビエル記念聖堂


光明寺


オランダ橋


平戸城天守閣


平戸観光資料館の入場券
写真はじゃがたら文




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