広報展示室→大講堂→幹部候補生学校→戦艦陸奥主砲→教育参考館

江田島といったら、すぐに旧海軍兵学校を連想してしまうのだ。古鷹山はその兵学校の生徒たちが訓練のために登っていた山でもある。古鷹山に登ったのだから、当然、この兵学校を見学しなくてはと思ってしまうのだ。


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200858

江田島といったら、すぐに旧海軍兵学校を連想してしまうのだ。古鷹山はその兵学校の生徒たちが訓練のために登っていた山でもある。古鷹山に登ったのだから、当然、この兵学校を見学しなくてはと思ってしまうのだ。
現在、ここは海上自衛隊の第1術科学校と幹部候補生学校になっている。
海軍兵学校は明治21年(18888月に東京築地からここに移転してきたのだが、以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートますとともに世界三大兵学校として世界に知られるところとなる。
太平洋戦争に敗れたことによって、昭和20121日に60年間の幕を閉じ、以後の10年間は連合軍の教育施設として使われたのである。
返還されたのは昭和31年で、当時横須賀にあった術科学校がここに移転してきて、翌昭和32年には幹部候補生学校が独立開校して、現在に至っているのである。
正門を入ると、参観者はまず広報展示室に集まる。名前の通り、ここは自衛隊の広告宣伝する部屋で、この学校の卒業式などのビデオが流されていた。
時間になると担当者が現れて、参観者はこの人に従って構内を見てまわるのだ。
最初に案内されたのは「大講堂」である。
ここでは入校式や卒業式が行われるのだが、2000人を収容できる大きなものである。建物は大正6年(1917)に建てられたもので、国会議事堂と同じ倉橋島の御影石が使われているのだ。入口の扉も大きくて、堂々としたものである。中に入ると、さすがに自衛隊、壇上には国旗が掲揚されていた。天井にはキャンドルが下げられていて、いかにも豪華な造りである。参観者は、正面の壇にたって記念写真を撮っていた。
大講堂から出て湾に向かって歩いて行くと、右には幹部候補生学校が建っている。ここでは毎年500人が卒業して、三等海尉として巣立って行くのである。赤煉瓦の美しい建物で、明治29年(1893)にイギリスの建築家によって設計されたもので、ここに使われた赤煉瓦はイギリスから輸入されたものだという。
赤煉瓦の校舎を見ながら歩いて行くと、遠くに砲台が見えた。でもそれは砲台ではなくて戦艦陸奥の主砲なのだ。戦艦陸奥は大正10年に竣工した戦艦で、当時としては世界最大の40センチ砲を備えた軍艦だったのだ。でも、戦艦陸奥は桂島泊地で謎の大爆発を起こして沈没してしまうのだ。悲劇の戦艦といっていい。
校舎が尽きたところで右折すると、教育参考館の前に着く。ここには日本海軍の資料が保管されているのだが、私の時は工事中で、向かいの学生間に資料が展示されていた。資料室の中は撮影禁止である。
教育参考館の前には戦艦大和の主砲弾丸や特殊潜行艇が展示されていた。
ここに展示されている特殊潜行艇は二つあって、一つは真珠湾攻撃に参加したものである。もう一つは、終戦直前、特攻兵器として改修されたものである。


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広報展示室


大講堂が見えてくる(裏)


大講堂の中


幹部候補生学校


教育参考館


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