防府はかつて周防国の国衙がおかれたところである。市内にはそうした史跡が残っているので巡ってみた。本当は歩くべきなのだが今回は車でまわってしまった。
また、防府は種田山頭火のふるさとである。私は山頭火の自由律の句を理解できなかったのだが、山頭火の墓や生家にたつ句碑を読んで不思議な感動を覚えてしまった。

周防国国衙跡→多々良大仏→周防国分寺→阿弥陀寺→防府天満宮→護国寺→防府駅前山頭火像→山頭火生家跡



国庁八幡宮跡


国衙跡


国衙跡

周防国衙

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2008年5月15日

防府市は古代において周防国府が置かれたところで、一度巡ってみたいと思っていたのだ。

車を走らせて、まず国衙跡に行った。
大宝律令によって日本全国
60余の国には国衙(国府)が置かれることになったのだが、周防国の国衙はここに置かれたのである。この国衙跡の土地は昭和39年から国有化を進めて、今は公園として整備されている。礎石などはすべて盛り土で隠してしまって見えないのが残念なのだが、築地跡などはサツキの植え込みでその形を示しているのだ。
ここには史跡巡りの指導標があって、すぐ近くに多々良大仏があるというので行ってみた。
指導標には大仏殿とあるので、どんな大きな仏殿が建っているのかと思ったら普通のお堂で、その中に高さ
3mほどの仏像が坐っていた。なんか異様な雰面容の仏像で、修復に継ぐ修復でもはや原型をとどめていないのではないかと思うのだ。一応、上品下生の印を結んだ阿弥陀如来である。言い伝えでは、周防の国司が造ったというから奈良時代のものである。(とてもそうは思えないのだが…)


周防国分寺


周防国分寺金堂


聖天堂


水鑑の井戸


金堂から仁王門を見る


次に行ったのが周防国分寺である。

国分寺とは、天平13年(741)に聖武天皇の勅願で全国に建てられたお寺で、私は日本全国を旅をするかたわら、国分寺にはできるだけ立ち寄ることにしているのだ。
お寺の裏にある駐車場から境内に入ると、つい最近建てられたと思われる聖天堂があった。こんなに真新しいとありがたみがない。
本堂が高く聳えているのだが、私は裏から入ったので正面に回り込む。正面から見る本堂はすばらしくりっぱなものであった。
正式には金堂というのだが、もちろん天平時代のものではない。永安
8年(1779)に毛利重就によって再建されたもので、重層入母屋造りの立派な建物である。
境内を散策すると塔跡があった。標石があるだけなのだが、創建当時はここに七重塔が建っていたのである。その後落雷によって焼失して、鎌倉時代には五重塔がたっていたという。それも室町時代に伽藍が全焼したときに失われて現在は礎石しら残っていない。
境内には弘法大師の石像がたっていたが、それがまたすごく稚拙で不格好である。この大師像の横にはなぜか、四国遍路の始まりとされる「衛門三郎」伝説の説明板があった。ここは四国でないし、この国分寺にはまったく関係ない話しだと思うのだが…。
境内には「水鑑の井戸」がある。菅原道真が太宰府に流されたときに防府に寄港し、この国分寺の住職から受戒を受けたのだが、お礼としてこの井戸に写る自分の姿の絵を描いて奉納したというのだ。その絵は「菅公水鑑の御影」としてこの寺の宝として残っているという。
境内には巨木が茂っている。樹齢1000年と推定される槇の巨木である。
境内から山門に向かう。
門をくぐって、外からこの門を見上げた。すごく重厚な楼門で、左右には室町時代の作とされる仁王像が収まっている。この門は文禄5年(1596)に毛利輝元が再建し、それを毛利重就が明和4年(1767)に大改修したものである。



阿弥陀寺入口


経堂


開山堂
阿弥陀寺


国分寺から車を走らせて阿弥陀寺に向かった。防府市の北西に建つ古刹である。

正式には「東大寺別院周防阿弥陀寺」というのだ。建久8年(1197)に竣工以来300年間の長きにわたって、この寺の住職は勅命をもって拝命し、周防の国務管理も兼ねていたという。周防国は平安時代末期には東大寺の領国だったのである。
駐車場から参道を行くと、茅葺きの山門がたっている。この両脇には快慶一派の作という仁王像がたっていて、国の重要文化財である。さすがに迫力のある仁王像であった。
古い石段を上って行くと、ヤマモモの古木があった。私は古木や巨木にすごく好きなのだ。
石段を上りきると念仏堂がある。その前の広場には宝筺印塔が立ち、さらに石段を上ったところには経堂もある。
境内には開山堂があって、その横には銅製の仏像が五体たっていた。水掛五大尊像というのだが、真ん中にたつ菩薩像は奈良薬師寺の聖観音像そっくりであった。
大きな本堂もあるが江戸中期の再建で、あまり由緒あるものには見えなかった。
この阿弥陀寺はあじさいの寺として有名で、約80種、4000株のあじさいが咲き誇るのだ。あじさいの咲く6月だけ、入山料200円が必要になる。でも、まだ5月なのであじさいの花はまったく咲いていなくて、入山料も払う必要はなかった。


防府天満宮
防府天満宮入口


石段を上る


天満宮楼門


扶桑菅廟最初の石碑



天満宮には牛がつきものです


次に向かったのが防府天満宮である。

菅原道真を祀った天満宮は日本全国に12000社もあるというのだが、その最初が防府天満宮なのである。
国分寺のところでも触れたように、菅原道真は太宰府に流される途中でこの防府に寄港して、しばらく滞在したのである。このとき菅原道真を篤く迎えたのが周防国司土師氏で、道真から菅家家宝の金の鮎
12尾を託されたという。土師氏は延喜4年(904)にこの12尾の鮎を納める宝殿を建立して、「松崎の社」として道真を祀ったという。これが天満宮の最初である。ちなみに日本三天神はこの防府天満宮の他、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮をいうのだ。
天満宮の入口に着いたのは17時少し前で、駐車場はがら空きであった。
古い石の鳥居がたっている。これは寛永6年(1629)に萩藩初代藩主毛利秀就によってたてられたものである。
長い参道を歩いて行く。石段を上って行くと左右に圓樂坊跡と大専坊跡があった。これらの坊は延喜4年(904)創建というのだが、明治の廃仏毀釈で廃寺となり建物も取り壊されてしまったのだ。
石段を上りきると正面には鮮やかに赤く塗られた楼門が建っている。天満宮の独特な建物である。楼門をくぐると、正面には落ち着いた感じの本殿がたっていた。
楼門から出て右に行くと「扶桑菅廟最初」と刻まれた大きな石碑がたっていた。

その傍には太鼓楼のたつ広場があって、池のある庭園もつくられていた。
楼門から左に行くと春風楼がたっている。これは当初、五重塔を建立しようとしたのだが、幕末の政情急変で中止されて、明治になってから楼閣として建てられたのだ。この楼閣の一階部分は五重塔として準備された資材を使っているのだそうだ。
この楼閣からは防府市街を一望することができる。
ここからさらに奥に進むと、毛利重就の銅像がたっていた。
その横には新しい歌碑があった。
面白きことも
なき 世を
おもしろく

これは高杉晋作の句である。これに続けて
みなす
ものはこころ
なり

望東尼が詠んでいる。司馬遼太郎によると、この後につけられた句は全体を凡庸なものしてしまっているというのだが。



山頭火の墓のある護国寺


句碑 「枝に花が 梅のしづけさ」


山頭火生家の跡


生家の歌碑

山頭火を訪ねて


防府天満宮の参拝を終えて山頭火の墓があるという護国寺に向かった。

種田山頭火は五七五の形式にとらわれない自由律の句で有名なのだ。彼は明治15年にこの防府市に生まれ、大正1444歳で出家し、その後まもなく全国行脚の放浪の俳人となるのである。私には彼の自由律句がよく理解できない。でも、護国寺の境内にある山頭火の句を読んでみると、なにかしらシミジミとしたものを感じてしまった。
分け入れば 水音
とか
雨ふるふるさとは はだしであるく

境内には笠塔婆という古い石碑があって、阿弥陀三尊を表す梵字が刻まれていた。
山頭火の墓に手を合わせて外に出たら、もう17時半になっていた。

2008516

昨日は、どうしても車を停めるところが見つからなくて、コンビニの駐車場で寝た。
朝、まず防府駅前に行った。駅前広場には山頭火の銅像があるのだ。日中駅前は混んでいるので車を停めれないのだが、早朝なら大丈夫だ。
その次に、昨日どうしても見つけらなかった山頭火の生家跡に行った。大きな東屋ができていて、その中に句碑があった。
うまれた家は
あとかたもない
ほうたる

これで防府で見るものはすべて見たので、今日の登山に出かける。


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