備中松山城は、高梁市街の北にそびえる牛臥山の山頂にあるのだ。標高420mの山頂にたつこの城は日本一高所にある城なのだ。
松山城は仁治元年(1240)に秋庭三郎重信が築かれたのが最初で、今の規模になったのは天和3年(1683)に31代城主水谷勝守によってである。その時に天守閣と二重櫓、土塀の一部が残っていて、重要文化財に指定されているのだ。
また、平成9年に、本丸を含む土塀と本丸南御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、本丸東御門、腕木御門が復元されて、昔の城郭そのままの感じで見学できるのだ。



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2008年5月31日

すごいツヅラ折れの道を走って、ようやく車道の終点着く。駐車場があって、けっこう車が停まっていた。観光客がチラホラ、城から戻ってくる。でも時間は
16時半になろうとしていいるので、さすがにこれから登ろうという人はいないようだ。
駐車場からは、しばらく山道を歩かなければいけない。拝観受付は17時までなので、急がないと見学できなくなってしまう。

備中松山城は市街地の北にそびえる山の上にあるのだ。標高420mの臥牛山の山頂にたつ松山城は日本一高所にたつ城なのである。
まったく登山と同じで、急な山の斜面をジグザグに登ってゆくのだ。樹林の中を登って行くと、道には表札のような指導標がたっている。「あわてずゆっくり歩むべし 城主」と書いてあった。
石の階段が現れると城郭は近い。城の石垣が見えてきて、樹林を抜け出すと、すさまじいばかりの石垣の重なりであった。巨大な絶壁があって、そこに石垣が何段にも組まれている。その上に白壁の城壁が見える。圧倒的な迫力である。
石垣の間に続くジグザグの石段を登って、ようやく二の丸に着くと、そこにはほとんど完璧な形で天守閣、土塀を見ることができる。天守閣は重要文化財に指定されているのだ。(昭和16年には国宝だったのだが…)
備中松山城は鎌倉時代の延応2年(1240)に秋庭三郎重信によって築かれたのが始まりである。戦国時代を通じて幾多の変遷があるのだが、毛利氏が関ヶ原の戦によって移封されたあと、小堀政次・政一(遠州)が改修したりしたが、今見る天守は天和3年(1683)に水野勝宗によって修築されたものなのだ。
二の丸から見る本丸は高い石垣の上にあって、本丸を守るように白い土塀が連なっている。本丸入り口の両側には五の平櫓(復元)と六の平櫓が見える。
石段を上って、本丸南御門をくぐり、本丸広場に着く。すぐ間近に天守閣がたっている。天守閣は二層二階造りである。でも、西側から見ると三層に見えるらしい。天守閣の特徴は正面にある大きな「唐破風出格子窓」である。二層の天守閣というのはずいぶん小さいのだが、標高420mの山の上にあるため権威の象徴としての役割しかなくて、藩主の住まいや政庁は、さっき見てきた高梁市街の「御根小屋(現在の高梁高校)」にあったのだ。
この天守閣は平成15年に大幅な保存修復がされて、いまの美しい姿がよみがえったのだという。
拝観受付は17時までだったので、ギリギリなかに入ることができた。天守の中に入ってみた、展示も少なくて、いかにも質素な造りであった。天守から北を望むと二層の櫓が見えたので行ってみた。
復元された土塀の間を行くと、重要文化財に指定されている「二重櫓」である。
天守閣をぐるりと一周してしまった。
天守から急な石段を引き返して行くと、途中、高梁の市街が展望できた。時間はもう17時半になろうとしていた。


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山道を登る


こんな標識がたっている


石垣の間を上る










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