遊歩道入口→円通寺→小足谷集落→醸造所→小足谷接待館→小学校跡→劇場→黒橋→高橋精錬所→ダイヤモンド水→トラス橋→焼鉱窯群→目出度町鉱山街入口→歓喜間符・歓東間符→銅山越→西赤石山→銅山越→牛車道→歓喜坑端展望台→蘭塔場→大山積神社→遊歩道入口

別子銅山は1687年に発見されて、住友財閥の前身である大阪の泉屋が採掘を行ったのだ。その後採掘量は減少したのだが、明治になってフランス人技師を招いて再開発をし、大正から昭和にかけては隆盛を極める。鉱山から新居浜まで専用の鉄道も引いたと言うからすごい。



BACK 二ツ岳

2007年1110

二ツ岳に登ったあとは赤星山に登るつもりだったが、道の途中に別子銅山の上り口があったので、急に西赤石山を往復したくなった。西赤石山は昔、石鎚山から東赤石山まで縦走したときに通過しているのだが、その時は雨で何も見ることができなかったのだ。別子銅山の観光も兼ねて登ることにした。
別子銅山の入り口には駐車場があって、トイレもあるのだ。ここで泊まって、朝、
7時に歩き始めた。
駐車場からは新しい木の階段が続いていて、すぐに水平道になる。コースはきれいに整備されていて、新しい橋があちこちにかけられている。
登山口から
10分ほど歩くと、鬱蒼とした林の中に円通寺跡があった。古い石垣が段を作っていて、そこには苔むした墓石が並んでいた。ここは別子銅山専用のだったのだが、大正8年に火災で焼失したのだそうだ。古い石段を登って行くと、昔、本堂があったところには供養塔がたてられていた。今も供養は続けられているのだそうだ。
谷を渡って、少し行くと小足谷集落と醸造所跡がある。ここにも石垣が残っていて、少し奥に入ると煉瓦の四角い煙突が残っていた。ここで味噌と醤油を造っていたのである。今、屋敷跡は一面の杉林である。
この先の坂を登ると赤レンガの塀が残っていた。小足谷接待館の跡である。銅山の賑わいにつれて要人が訪れることも多くなったので、そのために接待館ができたのである。
その先には長い石垣があって、これが小学校跡なのだ。明治22年に私立尋常小学校が開設され、その後高等小学校もできて最盛期の明治32年には生徒が298名もいたのだという。
この長い石垣に沿って歩いて行くと、一段と高く大きな石垣があった。明治
22年にはここに土木課ができて、大きな倉庫がたっていたのだ。ここを起点にして中七番まで車道が通じていたというのだが、どんなにまわりを見回しても車道らしきものはみえない。ここまで登ってきた道も細くてとても車道とは思えないのだが…。そしてこの建物は毎年5月の山神祭の3日間は劇場として解放され、歌舞伎の名優を京都から呼び、観客は数千人もいたというのだ。広い立派な石段が右に続いていて、この上にその劇場となった倉庫があったのだろう。
ここで左折して黒橋を渡る。渓谷は紅葉に彩られていてすばらしくきれいだった。谷の左を歩いて行くと対岸に石垣が見えて、これが高橋精錬所跡である。明治20年代には洋式溶鉱炉と沈殿工場があったのだが、その後水害で破壊され施設は放棄されたという。
少し急な坂を登って、東屋のある広場に着く。真ん中には水が勢いよく噴出する水場があって、これがダイヤモンド水であった。昭和26年に金鉱鉱床を掘削していたのだが、水脈にぶつかってしまって、ダイヤモンドを散りばめられた掘削機の先端はこの水脈に放置されることになってしまった。今噴出している水の底にはダイヤモンドの掘削機が沈んでいるのだ。そのありがたいダイヤモンドの水を飲んでみた。けっこううまかった。
緩やかに登って行くとトラス橋という吊橋がある。これを渡って少し行くと対岸には石垣の多段があって、これが焼鉱窯群なのだそうである。このあたりには溶岩のようなものが見えるのだが、これは銅をとったあとのカラミという酸化鉄なのだそうだ。
少し行くと分岐があって、右には橋がかかっている。どっちを行っても50分で銅山越に着くことができるのだが、真っ直ぐの道は帰りに歩くことにして、右の橋を渡った。
急な山道を登って行く。振り返ると山は紅葉ですばらしくきれいである。
道が緩やかになって、目出度町鉱山街の入口があった。帰りはこの道を行くつもりだ。
さらに登って行くと、歓喜坑跡がある。別子銅山は元禄4年、泉屋によって開鉱したのだが、その主坑がこの歓喜坑である。登山道から右に少し入ると二つの鉱山入口があった。明治に至るまで、この二つが主たる産出坑だったのである。
さらに登山道を行く。傾斜がきつくなって、これをどんどん登って行くと樹林から抜け出して展望が広がった。まわりの山々の斜面に生えているのは比較的若い松である。銅山が賑わっていた頃は禿山だったのだが、最近になって植林を行ったのだ。
ジグザグに登って行くと左に笹ヶ峰への分岐があったが、真っ直ぐに登るとすぐに銅山越であった。峠には石垣で囲われた中に石仏がおかれている。別子銅山で生産された粗銅はこの峠を越えて新居浜に運ばれたのだが、標高1300mのこの峠越えでは、風雪の中行き倒れる者も多かったらしくて、ここでその無縁仏を供養しているのだ。
石垣の中に入って、石仏に手をあわせた。
石垣の横を通って西赤石山に向かう。

NEXT 西赤石山


銅山越に戻ったのは1232分。ここから少し下ると笹ヶ峰への分岐があるので、この道を行く。水平道で昔は牛が荷物を運んだ道なのだという。
のんびり歩いて行くと、下には小高い山があってそこに四角に石垣を囲ったものが見える。これが蘭塔場であった。元禄に大火災があって、銅山で働く132名が焼死するという惨事があったのだが、その犠牲者を弔ったのがこの蘭塔場なのだ。すぐに分岐があって、直進すると笹ヶ峰だが、私は左の道を下って行く。
しっかりした道で、さすがに牛が通ったというだけある。この牛車道は明治13年に造られたのだそうだ。
やがて、歓喜坑の手前で登ってきた道と合流した。さらに下って、行くと歓喜坑の端という標識があったので行って見ることにした。登って行くと展望が開けて、別子銅山であった山々を展望できる。でも、今は紅葉におおわれて、銅山の形跡はまったくないのだ。歓喜坑の端はわからないままに道に戻った。

少し行って今度は目出度町への道に入る。樹林の中を下って行くと、蘭塔場の登り口があった。3分というので登ってみた。石垣で囲われた中には榊と卒塔婆がたっていた。
鮮やかな紅葉の中を下って針葉樹林の中に入ると、そこは大山積神社の境内であった。今残っているのは参道の急な石段と、本堂の跡と思われるところにたつお百度石の上半分、両側にたつ石灯篭の基部だけなのだ。
鬱蒼とした樹林の中を下って行く。結局、目出度町の跡はよくわからないうちに過ぎてしまった。登ってきたときの橋の分岐に戻ってしまった。後は朝の道を引き返して、駐車場に着いたのは14時少し前であった。


NEXT 赤星山

BACK 四国の旅

別子銅山入り口


小足谷集落跡


小学校跡


川の右岸を行く


ダイヤモンド水の広場


トラス橋


分岐、どっちでも銅山越に着く


目出度鉱山街入り口


銅山越


笹ヶ峰への分岐


蘭塔場






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