飛鳥資料館からは来た道を引き返して、途中で左折し南に向かう。飛鳥坐神社の参道入り口に着いたのは14時15分、雨がまた強くなったころであった。
傘をさして石段を上って行く。本殿は小高い山の上にあるのだ。神楽殿があってその先に本殿・拝殿がある。
本殿の前の広場を取り囲むように陰陽石が並んでいる。飛鳥坐神社には「おんだ祭」という奇祭があって、このとき行なわれる神楽は五穀豊穣と子孫繁栄を祈るもので、天狗とお多福の夫婦和合を演じる…と格調高くいってしまったが、要は性行為そのものを演じてしまうという卑猥なものなのだ。古代においてはセックスもおおらかに神事に取り入れられていたのだ。残念ながら私は実際にこの神楽を見たことはないのだが…。
境内には折口信夫の歌碑もあった。
ほすすきに 夕ぐみひくき 明日香のや
わがふるさとは 灯をともしけり
折口信夫はこの飛鳥坐神社宮司の血縁者なのだ。
飛鳥坐神社を出てまっすぐに西に向かう道は古い民家が建ち並んでいてすごくいい雰囲気である。すぐに左折してしまうのだが、その先に飛鳥寺がある。
私が二十歳の頃にこの寺を初めて訪れたときはお堂がぽつんとあるだけだったのだが、今は立派な塀に囲まれていた。
飛鳥寺は日本最古の本格的な寺院である。崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子の発願で8年後に伽藍が完成、塔を中心に東西に金堂を置くという他に類を見ない形式であった。本堂に安置されるのは止利仏師の作という釈迦如来坐像である。飛鳥大仏とも呼ばれる重要文化財の仏像なのだが、補修の跡が無惨で、お顔がフランケンシュタインのように継ぎ接ぎされているのだ。
飛鳥寺の境内を西に通り抜けると、田んぼの中に五輪塔がたっている。蘇我入鹿の首塚である。これも昔は本当に田んぼの畦にぽつんとたっていたのだが、今はきちんと石畳で整備されているのだ。五輪塔自体もなにかしら新しくなったような気がするのだが…。
中大兄皇子と藤原鎌足は蹴鞠会が行なわれたこの地で策謀を重ね、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿暗殺に成功するのだ。これによって蘇我体制は崩壊して大化の改新に至るのである。宮中で切られた蘇我入鹿の首は、空中を飛んでここまで来たという。板蓋宮はここから600mも離れているのだが…。
飛鳥寺から南に向かって歩いて行くと、右の急な山の斜面の前に「飛鳥寺瓦窯」の説明板があった。ここで飛鳥寺に使った瓦を焼いたらしい。
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