飛鳥路 2

飛鳥水落遺跡→飛鳥資料館→飛鳥坐神社→飛鳥寺→蘇我入鹿首塚→亀型石造物→酒船石→石舞台→橘寺→亀石→天武・持統天皇陵

飛鳥路散策の後半は、飛鳥に点在する謎の石造物をめぐることになる。これらの石造物は流水施設であったり噴水であったりで、飛鳥は本当に「水の都」だったのだ。松本清張はこれらの石造物は拝火教の祭祀にかかわるものだと唱えている。


 飛鳥資料館
飛鳥資料館


飛鳥資料館構内


亀型石造物


BACK 飛鳥路1 万葉の道

2008年11月24日

飛鳥水落遺跡から飛鳥資料館を目指した。北に向かって歩くと広い車道に出て、ここで右折して東に
2kmほど行くと飛鳥資料館である。ここは奈良国立文化財研究所の展示室で、実物大に復元された模型などが展示されているのだ。資料館に入る直前、雨が強くなってちょうど雨宿りになった。
ここでうれしかったのは、資料館の庭に飛鳥に点在する不思議な石造物の複製が展示されていたことである。私は本物かどうかにこだわることはまったくなくて、複製品であっても、間近に眺めることができたら大満足なのだ。この中で感激したのは吉備王墓猿石があったことである。昔、猿石を見たくて吉備王墓に行ったのだが、王墓は柵で囲われていて、その隙間からのぞくしかないうえ、樹木に隠れてよく見ることができなかったのだ。また、酒船石がどうのように使われていたかの展示もある。さらに石人像と須弥山石は噴水施設として復元されていて、飛鳥が本当に「水の都」だったことがよくわかるのだ。
館内には、屋外でみた石人像と須弥山石の実物が展示されていた。なおこの石造物はさっき見てきた飛鳥水落遺跡のすぐ隣、石神遺跡で発掘されたものなのだ。また、これから向かう「亀形石造物」も展示されていた。

雨が小降りになったところで飛鳥資料館から出て飛鳥坐神社に向かう。



 飛鳥坐神社 飛鳥寺
飛鳥坐神社


神楽殿が見えてきた


飛鳥寺


飛鳥寺本堂


飛鳥大仏


飛鳥資料館からは来た道を引き返して、途中で左折し南に向かう。飛鳥坐神社の参道入り口に着いたのは1415分、雨がまた強くなったころであった。
傘をさして石段を上って行く。本殿は小高い山の上にあるのだ。神楽殿があってその先に本殿・拝殿がある。
本殿の前の広場を取り囲むように陰陽石が並んでいる。飛鳥坐神社には「おんだ祭」という奇祭があって、このとき行なわれる神楽は五穀豊穣と子孫繁栄を祈るもので、天狗とお多福の夫婦和合を演じる…と格調高くいってしまったが、要は性行為そのものを演じてしまうという卑猥なものなのだ。古代においてはセックスもおおらかに神事に取り入れられていたのだ。残念ながら私は実際にこの神楽を見たことはないのだが…。
境内には折口信夫の歌碑もあった。

 ほすすきに 夕ぐみひくき 明日香のや
  わがふるさとは 灯をともしけり


折口信夫はこの飛鳥坐神社宮司の血縁者なのだ。

飛鳥坐神社を出てまっすぐに西に向かう道は古い民家が建ち並んでいてすごくいい雰囲気である。すぐに左折してしまうのだが、その先に飛鳥寺がある。

私が二十歳の頃にこの寺を初めて訪れたときはお堂がぽつんとあるだけだったのだが、今は立派な塀に囲まれていた。
飛鳥寺は日本最古の本格的な寺院である。崇峻天皇元年(588)に蘇我馬子の発願で8年後に伽藍が完成、塔を中心に東西に金堂を置くという他に類を見ない形式であった。本堂に安置されるのは止利仏師の作という釈迦如来坐像である。飛鳥大仏とも呼ばれる重要文化財の仏像なのだが、補修の跡が無惨で、お顔がフランケンシュタインのように継ぎ接ぎされているのだ。
飛鳥寺の境内を西に通り抜けると、田んぼの中に五輪塔がたっている。蘇我入鹿の首塚である。これも昔は本当に田んぼの畦にぽつんとたっていたのだが、今はきちんと石畳で整備されているのだ。五輪塔自体もなにかしら新しくなったような気がするのだが…。
中大兄皇子と藤原鎌足は蹴鞠会が行なわれたこの地で策謀を重ね、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿暗殺に成功するのだ。これによって蘇我体制は崩壊して大化の改新に至るのである。宮中で切られた蘇我入鹿の首は、空中を飛んでここまで来たという。板蓋宮はここから600mも離れているのだが…。

飛鳥寺から南に向かって歩いて行くと、右の急な山の斜面の前に「飛鳥寺瓦窯」の説明板があった。ここで飛鳥寺に使った瓦を焼いたらしい。



 亀型石造物 酒船石
亀型石造物へ


酒船石


このすぐ先に亀型石造物があった。平成
12年の発掘調査によって、亀形石槽を中心とした導水施設、石敷き・石段・石垣が発見されたのだ。これらの遺跡は谷底の深い場所にあって、石垣や石敷きで閉ざされていることから、水の流れを見て楽しむものではなくて天皇祭祀にかかわる場所と推定されているのだ。松本清張は、飛鳥の謎の石造物は拝火教(ゾロアスター教)の祭祀にかかわるものだという説を唱えている。

ここから鬱蒼とした林の中、急な階段を上ると「酒舟石」に着く。長さ5.3mで幅2.3m、花崗岩の表面に丸い窪みと細長い溝が彫ってある。酒を絞るための槽ではないかということで「酒船石」と呼ばれるようになったのだが、最近では庭園の水を引くための施設という説が有力である。この説で復元したものが飛鳥資料館にあった。
酒船石のある丘へは西側から上ったのだが、東側に下って石舞台を目指した。途中に岡寺があるのだが、これは省略してしまった。私はいずれ西国三十三観音の巡礼をするつもりなので、そのとき参拝をしたらいいと思うのだ。



 石舞台 橘寺
舞台


橘寺本堂


二面石


石舞台古墳に着いたのは
1520分であった。あいかわらず雨が降り続いている。
巨大な石を積み重ねた姿から石舞台と呼ばれるのだが、本当は古墳で、巨岩は古墳の石室にかぶせられた天井石なのだ。この付近に「嶋の宮」という蘇我馬子の庭園があったことから、蘇我馬子の墓とされている。

石舞台古墳から玉藻橋で飛鳥川を渡って、橘寺に向かう。車が通らない林の道を行き、橘寺の前に着いたのは1550分。
緩やかな石段を上ると、左右に坊が並んでいて、石畳の参道の向こうに本堂が見える。本堂に向かって歩いて行くと「往生院」という新しい建物があった。天井には鮮やかな色彩の絵がいっぱいに飾られていた。
橘寺は聖徳太子の誕生地で、欽明天皇の別宮であったものを推古天皇14(606)に聖徳太子が寺に改めたのだ。橘寺の境内には「二面石」がある。飛鳥に点在する謎の石造物の一つである。右が善面で左が悪面と呼ばれ、我々の心の持ち方を現しているのだという。



 亀石 天武・持統天皇陵
亀石


天武・持統天皇陵


橘寺から田んぼの中の道を西に行くと亀石に着く。昔は、道端に放置された感じだったのだが、今はりっぱな柵に囲われている。これも飛鳥の謎の石造物の一つで、今は南西を向いているが、これが西を向くと大洪水が起こるという伝説があるのだ。亀石のすぐ先には大きなお地蔵様がたっていた。

最後に天武天皇・持統天皇の陵にお参りした。壬申の乱に勝利して律令制度の基礎を築いたのが天武天皇、その皇后が持統天皇である。八角形の墳丘で両天皇が合葬されているのだ。なお、持統天皇は初めて火葬された天皇で、この稜には火葬骨が納められているのだ。
稜から石段を下って、飛鳥歴史公園の駐車場に戻ったのは16時半であった。



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