飛鳥路 1

飛鳥歴史公園→高松塚古墳館→近鉄飛鳥駅→近鉄橿原神宮前駅→剣池→小墾田宮跡→向原寺→雷丘→甘樫丘→飛鳥水落遺跡

飛鳥を始めて散策したのは私がまだ二十歳の頃である。今回はその時と同じコースを歩いて見ることにした。あの頃とはずいぶん変ってしまっていて、めちゃくちゃにきれいに整備されていた。それがいいことなのかどうかは悩むところである。



 高松塚古墳
飛鳥歴史公園館


公園内を行く


飛鳥駅

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2008年11月24日

大宇陀から車を走らせて飛鳥にやってきた。車は飛鳥歴史公園の駐車場に停めた。飛鳥歴史公園というのは高松塚古墳の周辺を整備して公園にしたものなのだ。

まず、飛鳥歴史公園館に入って、飛鳥の勉強をした。
公園内は本当にきれいに整備されていて、指導標に従って高松塚古墳を目指した。
高松塚古墳は直径18m、高さ5mの小さな古墳なのだが、昭和47年に古墳の中に彩色壁画が発見されて一躍有名になったのだ。
古墳の近くまでやって来たが、古墳自体は工事の真っ最中で、青いビニールシートがかけられ、ショベルカーがしきりに動いていた。工事をしてなくても、高松塚古墳内に入ることはできないのだが…。せっかく古墳にやってきても壁画が見れなかったら、意味がないじゃないかと思うのだが、そのために古墳に隣接して「高松塚壁画館」が建っているのだ。この館では復元模写された壁画を見ることができる。
壁画館から飛鳥駅に向かって歩いて行くと小川にかかる高松橋があった。この橋の欄干には玄武、青龍などが描かれていた。高松塚古墳の壁画に描かれている絵である。
近鉄飛鳥駅から電車で橿原神宮前駅まで行く。ここから飛鳥を散策しながら飛鳥歴史公園に戻るつもりなのだ。



 剣池 小墾田宮
橿原神宮前駅





小墾田宮跡


近鉄橿原神宮前駅からまっすぐに東に歩いて行くと、右に「剣池」がある。日本書紀には応神天皇
11年にこの池を造ったと記載されているので、ものすごく古い池なのだ。
また、皇極天皇の夏に池中の蓮に一本の茎に二つの花が咲いて、これは蘇我氏の繁栄を予告するものだ噂されたと伝えている。でも、蘇我氏はその翌年に滅んでしまったのだが…。
池の土手を辿ると柳の古木があって、そこに紀皇女の歌碑があった。

 軽の池の 浦廻行き廻る 鴨すらに
  玉藻のうへに 獨り宿なくに


軽の池のほとりを泳ぎ廻る鴨でさえ、玉藻の上に独りで寝ることはないのに…という意味らしい。

剣池からさらに東に向かって歩いて行くと、古い民家の家並みがあって、これを過ぎると田んぼが広がった。その中に土饅頭のような盛り上がりがあって、一本の木が生えている。この周辺が小墾田宮の推定地なのだ。小墾田宮は推古天皇の宮が置かれたところで、離宮や武器庫として奈良時代まで存続したらしい。蛇足だが、推古天皇の摂政が聖徳太子である。




 向原寺 雷丘
向原寺の山門


雷丘へ階段を上る


雷丘頂上


小墾田宮から路地を南に行くと向原寺がある。寺の白塀の前には豊浦寺跡という解説板が立っていた。

欽明天皇13(552)に百済の聖明王から金銅の釈迦仏と経綸が贈られたのだが、それを蘇我馬子が賜って、向原の自邸に安置したのだ。これが日本最初の寺院ということである。
この仏教崇拝をめぐって蘇我氏と物部氏が対立することになり、結局、物部氏は滅亡することになるのだ。(このとき聖徳太子は蘇我氏の側にたって出陣している。)
ここはやがて推古天皇の豊浦宮になったのだが、603年に推古天皇が小墾田宮に移ったあと、蘇我馬子が豊浦寺を建てたのである。解説板の横には「豊浦寺址」と刻まれた石標がたっていた。
向原寺と書かれた看板のある寺門をくぐって境内に入る。でも、本堂などはありきたりのもので、特に見るべきものはなかった。
向原寺から飛鳥川に沿って北に少し行くと雷丘の上り口がある。山道のような階段を上って丘の上に着くと、古墳の上にいるような感じであった。
雷丘といったら、柿本人麻呂の歌で有名なのだ。

 大君は 神にしませば
  天雲の 雷の上に 庵りせるかも


大君は神でいらっしゃるので、天雲の中にいる雷の上に仮の宮殿をお造りになっていらっしゃることだ…という意味である。
ここで詠われた天皇というのは天武天皇のことらしい。
雷丘から下ると、そこは「雷」という信号のある交差点であった。



 甘樫丘 飛鳥水落遺跡
こんな民家があった


甘樫丘への階段


甘樫丘の上


水落遺跡


飛鳥川を左に見ながら歩いて行くと白壁の古い民家があって、細い路地に入ると甘樫丘の上り口があった。甘樫丘は標高
148mの低い山だが、日本書紀にも名が記されているのだ。7世紀前期には当時の有力者であった蘇我蝦夷、入鹿親子が大邸宅を構えていたらしい。
「国営飛鳥歴史公園甘樫丘丘地区」という大きな石標から石段を上って行く。この途中に志貴皇子の歌碑があった。志貴皇子というのは天智天皇の第7皇子である。

 采女乃(うねめの)
 袖吹反(そでふきかえす)
 明日香風(あすかかぜ)
 京都乎遠見(みやこをとほみ)
 無用尓布久(いたづらにふく)


持統天皇によって都が飛鳥から北の藤原に遷されたときに、皇子は旧都にたたずんで、吹く風の中に美しい采女の幻想を抱いたのだ。
きれいに整備された遊歩道を行くと、甘樫丘展望台に着く。ここからは眼下に明日香村を一望できて、北から西には大和三山や藤原宮跡をみることができるのだ。あいにく雨が降っているため霞んでいるのだが、展望はもうしぶんなかった。

甘樫丘から下って飛鳥川を東に渡ったると「飛鳥水落遺跡」があった。
一辺24mの石組み護岸に囲まれた中に柱跡が復元されている。ここは斉明天皇6(660)に中大兄皇子が初めて造った漏尅(水時計)があったのだ。説明板で水時計の仕組みがよくわかった。
ここに隣接して石神遺跡がある。ここからは明治に須弥山石、石人像が発掘されたのである。



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