天草切支丹館→天草四郎像→切支丹墓地→キリスト平和像→イス・デ・アルメイダ碑→千人塚→明徳寺→本渡市立歴史民俗資料館

今から400年前、この天草には切支丹文化が華開いていたのだ。しかし、その後の鎖国政策によって状況は一変して邪宗門として苛烈な弾圧が続くのだ。でも天草島原の乱は宗教戦争というよりは、苛烈な重税に耐えかねた農民一揆に近い。時の領主が領民が切支丹であることをいいことに情け容赦なく年貢を取り立てたのだ。無能な領主をもった農民は悲惨としかいいようがない。
もちろん、乱後に藩主であった松倉、寺澤氏は廃絶され、幕府は年貢も半分にして領民の手厚い保護をしている。


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「道の駅有明」で夜が明けたが雨は降っていない。天気予報では午前中の雨の確率が高かったのだが、空を見上げると今にも降りそう…という感じではないのだ。これなら天草観光も倉岳登山もできそうである。
まず、本渡に向かって車を走らせて、ファミレスで朝食をとった。パソコンに登山記録を入力して、10時半頃に「殉教公園」に行った。外は雨になっていた。
公園の「天草切支丹館」に行ったら閉鎖中であった。建て替え工事をするようで、今は民俗資料館で展示しているのだという。
公園内を散策する…、といっても雨が降っているので大急ぎで見てまわるしかない。天草切支丹館の敷地内には天草四郎の銅像と大聖杯のオブジェがある。
石段を下って切支丹墓地に行く。正面には大きな十字架と白いキリスト像がたっていて、その両脇に石碑が立っていた。左が天草最初の殉教者アダム荒川の碑で右は天草で布教活動を行ったポルトガル人アルメイダの碑なのだ。その前には墓石が並んでいる。たてられている十字架は新しいものだが、礎石のように置かれている墓石は古いものだった。
ここから階段で少し下ると本渡城跡の標識があって、そこから階段を上がると「殉教戦千人塚」がある。
この塚に至る階段には灯篭が並んでいるのだが、それには殉教者の像が刻まれていた。
雨がひどくなったので、車に戻って民族資料館に向かった。この殉教公園の道は一方通行で、来た道を引き返すことができない。
走って行くと明徳寺の前に出た。享保二年の建立の立派な山門で、この寺は天草の乱の後に切支丹を仏徒に改宗させるために建てられたのだ。山門をくぐって正面に建つ本堂は新しいものでたいしたことはない。
次に本渡市立歴史民俗資料館に向かった。資料館は海に面して建っていて、街の中の細い道を走らなければいけないため、けっこうわかりづらい。
中に入ると、入館料は無料なのだそうだ。得した。
天草の乱で使われた旗印が目玉なのだが、今展示されているのはレプリカである。年に4回しか本物は展示しないのだ。実物は、展示されているレプリカの下の箱に収まっているのだそうだ。
のんびり見学していたら11時半を過ぎてしまった。今日の登山の倉岳に向かわなければいけない。


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天草切支丹館。閉鎖中だった


天草四郎の像


切支丹墓地


千人塚






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