大手門跡→虎口跡→羽柴秀吉邸跡→前田利家邸跡→総見寺→黒金門跡→仏足石→信長公本廟→本丸跡→天主台→三重塔→仁王門→羽柴秀吉邸跡→大手門跡

織田信長の築いた安土城は日本で始めて天守閣を持つ城だった。信長というのは天才としかいいようがない。その溢れる才知で既存の権威を破壊しつくして、そして絢爛たる安土桃山文化を開花させたのだ。今、安土城跡にたっても、その華やかな偲ぶすべはないのだが、天主台からは青く広がる琵琶湖を眺めることができた。


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2007年916

金糞山に登るつもりで八草峠に泊まったのだが、一晩中風が風雨が強かった。朝になっても天気が回復する気配がないので、あきらめて下山することにした。いったん琵琶湖畔に戻ってきたら、驚いたことに青空が広がっていた。せっかく天気がいいのに登山しないのはもったいないので、どこか適当な山はないかと探したら、安土山・繖山があった。
安土に向かって走って行く途中でマクドがあったので、ここで朝食にした。車に積んでいた食べ物が底をついてしまって、お腹が空いていたのだ。
安土城の駐車場に着いたのは1025分である。安土山登山ということなのだが、標高は190mでとても登山とはいえないうえに、入口では入場料を500円払わなければいけないのだ。観光客がいっぱいで、三連休の真っ最中だということに気がついた。
入場受付の前にも説明板がたっていて、大手門跡なのだそうだ。
安土城は、もちろん織田信長の建てた城である。織田信長というのは天才的な建築家でもあったようで、日本最初の天守閣を持つのがこの安土城なのだ。私たちは城といったら天守閣をもって優雅に聳えているものと思ってしまうのだが、安土城以前は砦を大きくしたようなものでしかなかったのだ。この城については、当時、宣教師としてやってきていたイエズス会のルイス・フロイスが書き記している。五層七階の天主は高さ33mもあって、黄金に輝いていたという。
受付を過ぎると、目の前には広い急な石段が続いている。こんな急な階段を登るのかとため息が出てしまう。…これはまぎれもなく登山である。
広い石段を登って行くと、すぐに左に前田利家邸跡がある。そしてその向かいには羽柴秀吉屋敷跡。一応伝承ということらしいが、急な石段を登り始めてすぐのところに前田や羽柴の屋敷があるとはできすぎ。

さらに前田利家の屋敷の上には徳川家康の屋敷跡。今はハ見寺の仮本堂になっている。中に入りたかったが木戸が閉まっていてダメだった。ハ見寺というのは織田信長の菩提寺である。
石段を登っていて驚くのは、石段に石仏が使われていることである。それが一つや二つではないのだ。さすがに比叡山すら焼き討ちして、神仏を一切恐れなかったという織田信長である。信長という人は徹底した合理主義者で、宗教についてもキリスト教の宣教師と仏教の僧侶とで論争をさせたりしているのだ。
壮大な石垣と石段が続く。石段が左に曲がって林の中に入るとT字路で、真っ直ぐ行くと三重塔に行く。天主跡へは右折する。
石段を登って行くと黒金門跡に着く。その先正面に仏足石があった。これはどこから運んできたのだろうと思ってしまう。
この前を左折して石段を登ると、左に信長公本廟がある。石段を登って林の中の平坦地に着くと、茶室の門のような木戸があった。その中を覗くと石灯籠と基壇がある。これが信長の本廟なのだ。
分岐に戻って石垣に沿って進むと樹林の平坦地に着く。よく見ると礎石がいくつも並んでいる。ここが本丸跡であった。
ここから石段を登って左に行くと、低い石垣に囲まれた四角な広場に着く。そこには大きな礎石がいくつも並んでいた。ここが天主跡であった。これを囲む石垣に登ると、そこからは安土の田園がきれいに見えた。
三重塔分岐まで引き返して、鬱蒼とした樹林の中の石段を登って行く。とつぜん、左に三重塔が現れた。室町時代のもので、信長が甲賀の長寿寺から移築したものなのだそうだ。端正な形の塔で、国の重要文化財に指定されている。
この三重塔から急な石段を下ると仁王門がある。これも信長が甲賀から移築したもので、門内に置かれた金剛力士像とともに国の重要文化財である。
さらに石段を緩やかに下ってから左折して平坦な道を行くと、登るときに見た羽柴秀吉邸跡に出た。
あとは大手道の石段を下って受付に戻るだけである。

安土城はけっこう見ごたえがあった。

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安土城入り口


伝・羽柴秀吉邸跡


伝・前田利家邸跡


天主への石段


黒金門跡に着く


信長公本廟入り口


天主台の礎石





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